「なんだ、そりゃあ」
「おっしゃることがわかりません、って意味よ」
「そったらまどろっこしい答え方をするからだめなんだ。
はっきり、お断り申し上げます、って言ってやれ」
「…………」
房枝は十九歳だった。
たとえアメリカ兵であっても、異性に声をかけられると胸がときめくらしかった。
それから間もなく、軍政局に接収されていた越中屋ホテルの電話交換手が急病で休み、代替えで房枝が勤務することになった。
その日の帰り、アメリカ兵がジープで房枝を家まで送ってきた。
アメリカ兵は運転席から下り、房枝の手をとって下りるのを助けた。
再びジープに乗るとGood bye.と陽気な声で言い、房枝もThank you very much.と手を振って応えた。
そんな二人を近所の人たちが遠くから見ていた。
父は房枝が玄関を入るなり、「あれほど言っといたのにパンパンみたいな真似しやがって」と怒鳴りつけた。
この言葉は房枝の気持ちを傷つけた。
「私が何したっていうのよ。
ただ送ってきてもらっただけなのに」と珍しく声を張り上げた。
母はわけもわからず、おろおろするばかりだった。
興奮が収まると房枝は部屋に閉じこもり、父は茶の間で煙管をストーブ台の縁に何度も叩きつけた。
芳枝が克夫の脇を突いて、半分に折ったチョコレートをよこした。
房枝の持ち帰ったものらしかった。
父の背を盗み見ながら、こっそり一片を舌に乗せると、とろけるような甘味が口中に広がり、悪の誘いのように克夫の胸をドキドキさせた。
夕方、克夫は近所の子供たちと隠れんぼをしていた。
鬼になった精米所の息子が板壁に頭をつけて数を数え出すと、彼は鉄郎と小路を走って裏の物置小屋に入った。
積み重ねた下駄の木地と壁の間へ、蟹のように横に歩いて滑り込む。
「ここなら見つからんな」と鉄郎は並んで立つ克夫に言った。
暗くて狭いそんな場所に、二人肩を寄せ合っているのは妙な気分だった。
精米所の息子が何かぶつぶつ言いながら小屋の前を通り過ぎた。
鉄郎は声を出さずに笑った。
しばらくして遠くで「民ちゃん、見つけた」と叫ぶのが聞こえた。
鉄郎は今度は声をあげて笑った。
克夫は木地と壁に挟まれていることに息苦しさを感じてきた。
「もう出ていこうよ」と言うと、鉄郎は「待て」と小声で制した。
入口の戸が開いて誰かが入ってきたのだ。
木地の隙間から覗くと、七三に分けた髪は忠夫に違いなかった。
そして後ろから女の人も入ってきた。
二人は戸を締めると向かい合った。
克夫は息を殺して覗いていた。
こっち向きの女の顔は、小窓から入る明かりしかないのでよくわからなかったが、着物を着ているので、いつかの日傘の人だと思い当たった。
「来るなと言ったのに」忠夫はささやき声ながら、強い口調で言った。
「私、聞いてほしいことがあるの」女の人はあえぐように言った。
「聞いてどうなる、今さら」
「……私、あんたのことばかり考えてたわ」
「よく言うよ、裏切っておいて」
「怒ってるの、当然よね。
ああ!」女の人の声が昂った。
「声をあげるな。
家族に聞こえる」忠夫は怒った声ばかり出した。
「許してちょうだい。
どうしようもなかったの」
「ふん、玉の輿に乗って満足なこったろうよ。
選りに選ってあんな爺と」
「違うわ、私だって辛かった。
お店は左前になるし、母さんは寝たきりになるし」女の人はすすり上げながら話した。
「あんたは生きて帰るか、死んで帰るかわからないんだもの。
フィリピンは全滅だって言われて」
「おれはな……」忠夫の声が震えてきた。
「地獄のなかでおまえだけを思っていた。
おまえに逢いたい一心で生きてきた」
克夫は驚いた。
信じられないことに、あの物事に動じない兄が泣いているではないか。いつもは克夫の弱さを叱りつける兄が、突っ立ったまま肩を震わせて泣いている。
「ああ、なんて不幸なの」女の人は両手で顔を覆い、ほとんど裏声のような声でうめいた。
「あんたが生きているのに、どうすることもできない」
「…………」
忠夫の腕が、ふいに女の人を引き寄せた。
彼女は少し抵抗したが、やがて着物の袖から伸びた白い手が忠夫の首筋にしがみついた。
克夫はごくりとつばを飲み込み、その音が物置小屋の中に響いたような気がして、思わず首をすくめた。
隣にいる鉄郎も体を固くしたまま、じっと見つめ続けている。
忠夫を呼ぶ母の声と、バツの吠える声が聞こえてきた。
忠夫と女の人はあわてて離れた。
そしてまた顔を近づけてひそひそと言葉を交わすと、小屋の外へと出ていった。
「見ちゃった、見ちゃった」と鉄郎がおどけた声を出した。
それを遮るように、克夫は言った。
「鉄ちゃん、いま見たこと誰にも言わないでよ」
「なんでさ」
「……なんでたってさ」
克夫は、兄の苦しみを自分の胸の中にそっとしまっておきたいと思った。
だが、その気持ちを言葉でうまく説明することはできそうになかった。
意外にも鉄郎は、あっさりと承知してくれた。
「よしわかった、約束するよ。
その代わり」
「その代わり?」
「機関銃の弾丸(たま)がほしいな」
「…………」
機関銃の弾丸は、克夫にとって一番の大事な宝物だった。
しかし、このさい兄の秘密を守るためなら仕方がないと思った。
克夫はすぐに机の引き出しから弾丸を一発持ち出し、鉄郎の手に握らせると、絶対に兄とあの女の人のことを口外しないと誓わせた。
バツがいなくなってしまった。
その日、船が波止場に着いたというのに、いつもの場所にバツの姿は見えず、忠夫が何度も口笛を吹いて探したけれど現れなかったという。
「誰かに食われちまったのかもしれねえ」と父が言った。
「あいつは赤犬じゃないよ」と忠夫は否定した。
「赤も黒も関係あるか、そんなこと言ってられないご時世だ」と父は続けた。
「食えるものならなんだって持ってかれちまうんだ」
父は、買い出しの帰りの夜道で、担いでいた風呂敷包みを丸ごと奪われた主婦の話や、配給だけで耐え忍んで、ついに栄養失調で亡くなった裁判官の話をした。
実際、イモの皮をすりつぶしてデンプン団子に混ぜたり、カボチャのツルまで煮物にして食べるほど、みんな生活に困っていた。
犬がうろついていれば、狙う人がいてもおかしくない状況だった。
バツが殺されて、肉鍋にされているところを想像すると、克夫の目に涙がじんわりと滲んできた。
それをまた、兄に見とがめられてしまった。
「なんだ、また泣いているのか。
泣き虫め……。
戦地じゃな、おまえ、いま隣で声をかけ合っていた奴がふいに喋らなくなるんだ。
揺すってみてももう死んでいる、そんなことが何度もあった。
犬一匹くらいでめそめそするな」
忠夫は怒ったような声を出した。
克夫は「兄さんだって泣いたじゃないか」と思ったが、それは口に出していいことではなかった。
そして、またしても克夫の涙は止まらなくなった。
バツの哀れな姿を思い浮かべると、悲しさは募るばかりだった。
あの不格好な野良犬が、いまではかけがえのない大切なものに思えていた。
何日待ってもバツは姿を見せず、それっきりになってしまった。
夜、家の前に自動車の停まる音がした。
初級翻訳・尾なし犬 第5話
佐野 良二
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