初級翻訳・尾なし犬 第7話

佐野 良二

「それじゃ、忠夫は刑務所に入ることになるのかい」母は気が動転して、悲鳴のような声を出した。
「警察に留置されているだけだ。
船主でねえんだから、すぐ釈放になるべ」父は案外落ちついた声で話した。
しかし煙管に刻み煙草を詰める手が震えていた。
「何だって、そんなことをしちまったのかねえ」
「海に線を引いて、こっから先は獲っちゃいかん、てんだ。
向こうには魚がわんさといるとわかってりゃ、マッカーサー・ラインでも何でも越えて行きたくなるわな」
 それから父は、煙管を何度もストーブ台の縁に叩きつけた。
茶の間に不安な空気が漂い、誰もが黙ってしまった。
大分たって父はまた愚痴った。
「いままで誰に文句もいわれんで獲ってた海なんだが、……何たって戦争に敗けたんだからしゃあねえさ」
 忠夫は一週間の拘留を受けたのち、帰宅した。
漁船の船主は操業停止の処分を受け、出漁できなくなった。
忠夫の漁船員の仕事も終わりになった。
また仕事を探し始めたが、今度はツキが落ちたみたいに見つからない。
毎日出ていっては酔って帰ることが多くなった。
泥酔して大声でわめき散らす兄の姿に捨てばちなものを感じて、克夫は不安を募らせた。
「フィリピンちゅうと、南洋だべさ」
 隣の柾屋の親父が、犬の肉のお礼にイナキビでつくったドブロクを持ってきた。
それをちびちび飲みながら戦争の話になった。
父は寄り合いに出ており、母は台所にいた。
問われるままに忠夫は話し始めた。
「ええ、ココヤシ、パイナップル、バナナなんかが穫れるところですから」
「それじゃあ、食い物に不自由はなかったかい」
「とんでもない、いつも腹ぺこでした。
支給される食糧では飢え死にしちゃいますから、夜ごと徴発に出かけたもんです。
……徴発とは、要するに現地人からむりやり奪い取ってくる」
「…………」
「スコールはまったく天の恵みでしたね。
夕立の親玉みたいなやつが猛烈に降ってきて、さっと上がっちまう。
すると、草むらにカタツムリがうじゃうじゃ現われる。
それを掻き集めて、飯盒で煮て食うんです」
「デンデン虫まで食ったって!」
「日本のカタツムリより大きくてよく肥えてんですよ。
味もまるで何かの貝のようにうまいんです」
「へえ……」
 湯飲み茶碗のドブロクをすする忠夫の眼は、異様に光ってきた。
酔いがだんだん饒舌にしているようだった。
「現地人も米の飯を食ってるんですけど、こんな食い方があります。
まず丼に炊きたてのご飯を八分目ほど入れる。
それから生きた家鴨を連れてきて、逆さにぶら下げ、首を斬る。
噴き出す血をすばやく丼に注いで、ちょうど丼一杯になったら、フーフー吹きながら熱いうちに食う……」
「うわ、胸がわるくなる」
 柾屋の親父は口をへの字にして気味悪がった。
「サトウキビも穫れるって聞いたがな。
砂糖を使った料理はなかったかね」
「そう、製糖工場もあった。
そこが爆撃されたときは凄かったですよ。
融けた砂糖が水飴になって流れる、そのなかに逃げ遅れて死んだ奴がごろごろしてるんです」
「いやいや、まるで人間の甘煮だねえ」
「そうです。
ちょうど人間の甘煮です、あれは……」
 忠夫はうなずいてみせたが、柾屋は自分の軽はずみな言い方に気づき眼をキョロキョロさせた。
あわてて別なことを言った。
「に、人間を斬ったことがあるかね」
「…………」忠夫は茶碗を持つ手を宙にとめた。
「斬ったことはないですよ、機関銃兵だから撃つだけです」
「ああ、そうか。
銃撃戦は遠く離れてるから、殺った手応えがないねえ」
「いや、そんなことはない。
遠くにいても手応えを感じますよ。
敵さんが死ぬ時の、魂が空中に抜け出す音が聞こえるんです」
「ど、ど、どんな音だね」
 忠夫は頬に薄笑いを浮かべ、茶碗を床に置いた。
克夫は息苦しくなって、身を固くした。
「ヒューッという感じだね。
タイヤの空気が抜けるみたいな。
それは戦場がいくらやかましくても聞こえる。
ヒューッ、ヒューッ、ヒューッ、立て続けに聞こえたりしたら気持ちが昂って、何も恐ろしいものはなくなってしまうのさ」
「…………」
 柾屋はうろたえた目つきをした。
そして額の汗を拭った。
忠夫の頬や首筋にも汗が流れていた。
「お、女はどうだったね。
フィリピンの女は」柾屋は話題を変えようとした。「どうって?」
「あそこにはスペイン系の綺麗な人たちがいるって聞いたけどね」
「そりゃあもう、みんなモデルみたいに見えましたよ」
「手に入ったのかい?」
「…………」
 忠夫はぐっと黙り込み、柾屋のおじさんを射るような目で見た。
女の話題になると、お兄ちゃんは荒々しくなる。
いつだったか、夜の街で漁師仲間たちと喧嘩をして、鼻血をたらしながら帰ってきたことがあった。
あれも女のことが原因だったと、お母さんがお姉ちゃんたちとコソコソ話していたのを覚えている。
克夫は、物置小屋の暗がりで兄の首に絡みついていた、あの白い腕のことを思い出していた。
「おじさん、変なこと聞かないでくださいよ」
いつの間にか茶の間に戻ってきたお母さんが、ピシャリと注意した。
柾屋のおじさんは、下品な笑い声をペタペタと立てた。

 春が来て雪がとけると、お父さんは幌(ほろ)をつけたリヤカーを引っ張って、下駄の歯を直して回る移動仕事(巡回歯入れ)を始めた。
世の中がすっかり靴の時代になりかけていて、下駄はだんだん見かけなくなっていたけれど、お金のない人たちはすり減った下駄や足駄(あしだ)を大事に履いていたから、この出張修理はそういう人たちにとても喜ばれていた。
お父さんはこうして毎日、その日暮らしのお金を稼いでいたのだ。
海側の高島町というところまで回るには、山を一つ越えていかなければならない。
リヤカーがすごく重いので、忠夫がお手伝いすることになり、克夫も一緒についていくことになった。
なだらかだけれど、ずーっと続く長い坂道だった。
お父さんが前で引っ張り、忠夫と克夫が後ろから押す。
もっとも、克夫のほうはただ手に力を添えているだけで、何の役にも立っていなかったけれど。
坂を登っていくにつれて、小樽の港が前方の松林のすき間から見えてきて、やがて足の下にすっごい景色が広がった。
てっぺんまで着くと、お父さんは「あとはわし一人で引っ張っていくから」と言った。
すると忠夫がスーッと前のほうに出て、「ちょっと話があるんだ」と言い、振り返って克夫に「おまえはもう帰れ」と命じた。
克夫はしぶしぶリヤカーから離れたけれど、見たことのない町へ行ってみたい気持ちがあって、少し離れたところからこっそりついていった。
「父さん、おれさ……」と忠夫が話し始めた。
松林を吹き抜ける風がピーピーと笛みたいに鳴って、お父さんとお兄ちゃんの会話を邪魔したり、ときどき風に乗って耳元まで運んできたりした。
「……時間が解決するさ。じっと耐えてろ」
お父さんは忠夫と並んでリヤカーを引きながら、ぐっと力を込めて言った。
「だっておいら、辛くなるばかりだもん。いっそこの町を出て行こうかと……」
お兄ちゃんの声は、まるで苦しくて呻(うめ)いているみたいだった。
「出て行くったって、どこへ行くんだ」
「叔父貴に相談してみようと思うんだ。

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