「今日はご主人役でお疲れさまね」
彼女はそう言って、まっすぐにこちらを見上げながら、親しげにふふっと笑いかけました。
「お友達がいらしたら、みんな連れていらっしゃいよ。美味しいごちそうをたくさん用意して待ってるから」
「ありがとう、暑いのにどうもね」
半之助はあいまいな返事を返すと、そそくさと玄関の方へ歩いていきました。
彼女とはここ二年ほどのあいだに、ほんの三、四回、それもただ挨拶を交わすくらいの付き合いしかありませんでした。
顔立ちはそんなに悪くないし、頭も切れそうではあるのですが、どこかお高くとまっているくせに、あまりに馴れ馴れしい態度をとってくるので、半之助はどうしても彼女を好きになれなかったのです。
外は風がまったくなく、むっとするほど蒸し暑い日でした。
南部坂(なんぶざか)のあたりまで来ると、青山主馬(あおやましゅめ)に出会い、いっしょに坂をのぼっていくと、すぐ右手にある昌雲寺(しょううんじ)の門のところで、村田平四郎(むらたへいしろう)と正木重兵衛(まさきじゅうべえ)が、日陰で暑さをよけながら立ち話をしていっていました。
「また中止になったんだってねえ、柳沢邸へのおなり(将軍の御成)、知ってるかい?」
正木重兵衛がせかせかと、そんなふうに切り出しました。
「いや、知らないなあ」
半之助はそう答えると、すぐに村田のほうへ話しかけました。
重兵衛は仲間うちで「伝令」というあだ名がつけられている男でした。
交友関係が広く、耳が早いうえに、口が軽いのです。
悪気はみじんもないのですが、見聞きしたことは、たとえごくどうでもいいようなくだらないことでも、すぐに誰かに話さずにはいられない性質でした。
本人もそれが気恥ずかしいのか、「――我ながら自分がいやになるよ、しゃべったあとでいつも後悔するんだが、こればかりはもう一種の病気だと思うね」などと自分で言ったりしていました。
とにかく、これは誰かに話してやりたい、そう思ってそれを口に出さずにいると、胃のあたりがむずがゆくなってくるのだそうです。
「しばらくぶりだねえ、いつ長崎から戻ったんだい?」
「今日で、七日(なのか)に、なる、かな……」
村田平四郎はまぶしそうに目を細めながら、いつものちょっと重たそうな口ぶりで答えました。
彼は寺社奉行の役所に勤めていて、その仕事の用事で一年ばかり長崎に行っていたのです。
お上の仕事のほかに、自分に必要な本草学(ほんぞうがく:薬草や自然科学の研究)関係の本や資料を集めるという目的もあったのでした。
「今日の(将軍の予定が取りやめになった)こと、よく知ってたねえ」
「うん、……松室(まつむろ)のほうでね、……」
そこで言葉がぽつんと途切れました。
半之助は、ほかの客たちがやって来る前に、法事が終わったら自分たちだけでこっそり抜け出そうと、その相談を村田たちに持ちかけようとしたのでした。「完全に賛成だね」
重兵衛は、今にも手を叩き出しそうな勢いで言いました。
「木挽町の茶屋にしようぜ」
「でも、それはさすがに……ねえ」
村田平四郎はそう言って言葉を濁し、何やら補うように、独特の手まねを交えました。
施主である自分たちが、法事の途中で勝手にそんな遊びに行くのは良くない、
と言いたいのでした。
彼はいつもそんな風に、言いたいことを最後までハッキリとは言わず、半分は手まねや身ぶりで補うのが癖だったのです。
「いや、とにかくあの本家の接待なんて、とても付き合っていられないし、ほかにもちょっと理由があるんだよ」
「理由はいいから、とにかく手分けして段取りを決めようぜ!」
重兵衛はひとりで勝手に盛り上がっていました。
そこで、松室泰助(まつむろたいすけ)がやって来たら、「役所に急用ができた」と嘘をつかせて、半之助がまずはやい時間に寺を抜け出す。
そして、あとはそれぞれの言い訳を使って、木挽町の山村座にある茶屋にみんなで集まろう。
そういう計画に決まりました。
そこで重兵衛は、松室と事前に打ち合わせをするために坂の下まで迎えに行き、三人はお寺の本堂(方丈)へと上がっていきました。しかし、間もなくして次々と客が到着し始めたため、半之助にはのんびりと落ち着いている暇などありませんでした。
やって来た客の数は、予想以上に多いものでした。
ただ人数が多いだけでなく、どうやらそこには谷町の本家による周到な企みがあるようでした。
半之助とは何の縁もないはずの客が四人もおり、お経が始まる前に、冲左衛門(ちゅうざえもん)はその男たちを半之助にわざわざ引き合わせ、「どうぞよろしく頼みますよ」などと紹介までしたのです。
男たちはそれぞれがお役所の「支配」といった高い身分で、冲左衛門となにか特別なつながりでもあるのか、半之助に対しても愛想よく、
「暇があったら、ぜひ自宅の方へも遊びに来てくださいね」
などと声をかけてきました。
そのうちの一人は望月内記(もちづきないき)といい、大目付の記録所の支配だそうですが、「自分のところにそろそろ空きが出る予定だから、機会を見て君を推挙してやろうと思っているんだ」といった旨の匂わせまでしてきたのです。
半之助は敵にも味方にもならない当たり障りのない挨拶を返し、手が空くとすぐに、友人たちの輪へと逃げ込みました。
「いったい何者なんだい、あのじいさんは」
重兵衛がさっそく尋ねてきました。
「まるでこの法事の仕切屋(プロデューサー)みたいじゃないか。主人公の君を差し置いてさ、いったいどういうつもりなんだ?」
「まあ、今日の本当の主役はあっちのほうさ」
半之助はそう答えながら、心の中で嫌な想像を膨らませていました。きっと冲左衛門は、これらの客を自分の家での宴会に連れ込み、あわよくば佐枝までもその場に並ばせて、自分に引き合わせようと目論んでいるに違いありません。――そんなことになったら、どんな手を使ってでも絶対にここから抜け出さなければならない、と半之助は強く思ったのです。
「松室には会えたのか?」
「ああ、会えたよ。もう少ししたら来るはずだ」
重兵衛がそう答えかけたとき、「ごぶさたしております」と言いながら、半之助のそばへ近づいて座る者がいました。
半之助には、それが誰なのかすぐには分かりませんでした。
その若者は半之助より一歳か二歳ほど年下で、体も顔もほっそりと痩せこけていました。
薄く白い皮膚はまるで神経がピリピリと逆立っているかのようで、際立って鋭く、敏感そうな目鼻立ちをしていました。
――一体、誰だったか。
確かに見覚えのある顔でした。
特に、微かに微笑んでいるその唇のあたりが……。そう考えているのはほんのわずかな時間でしたが、相手はまるで侮辱でもされたかのように顔を歪め、こう言いました。
「五番町の遠藤ですが」
「……お忘れですか? 千之助ですよ」
半之助はハッとすぐに思い出しました。
そして、理由もなく胸がドキンとしながらも、
「これは失敬! すっかり大人っぽくなったから、見間違えてしまったよ」
と言いました。
「そんなに変わりましたか?」
千之助はニッと意地悪そうに笑いました。
「そうじゃないでしょう。
初級翻訳・山彦乙女 第5話
山彦乙女
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