主馬はすでに捉まったのである。
それはもうできた事だ。
それよりも村田に知らせて、村田を危険から救うほうがいい、村田に主馬を助け出す法があるかもしれない。
こう思いなおした。――だけど、どうしよう。村田はもうすぐここにやってくるはずだ。家にはもういないだろうけれど、もしここに来たら、どこかで待ち伏せしている連中に捕まってしまうかもしれない。
主馬(しゅめ)が連れ去られるのを見送ったあと、半之助はすぐに二階へ戻り、表側の窓から外の様子をうかがった。
「いったいどうしたんだ?」
重兵衛が心配そうに声を上げ、「青山に何かあったのか?」と言いながら立ち上がろうとした。
半之助は手で制してそれを止め、そのまましばらくの間、じっと外を見つめていた。
すると、主馬が連れ去られてからほんの一足違いで、木挽橋(こびきばし)の方から村田平四郎(むらたへいしろう)が歩いてくるのが見えた。
――今すぐ知らせに走り出すべきか?
しかし、浴衣姿のまま飛び出すわけにはいかないし、もう間に合わないかもしれない。
――どうか無事に来てくれ。
道の両側をハラハラしながら見つめながら、半之助はそう心の中で祈った。
お店の前がちょうどお休み中の劇場だったため、道路は広くて人通りもまばらだった。もし待ち伏せがいればすぐに気づかれてしまうし、隠れる場所なんてどこにもなかった。
だが、心配したようなトラブルは起きず、村田は無事に茶屋の中へと入ってきた。
「青山が捕まっちまったんだ」
階段のところまで急いで下りていき、半之助はそう告げた。
暑さのせいで少しほっそりして見える平四郎は、いつものように少しも動じない落ち着いた目で半之助の話をうなずきながら聞き、「すぐに手配しよう」と低い声で言った。
「心配しなくていい。あいつらには、私たちになんの危害も加えられないさ」
「だけど、村田も一度家に戻ったほうがいいんじゃないか? もし君の家を訪ねていなかったら、あの連中はまたここへ戻ってくると思うんだが」
「大丈夫だよ」
背の高い平四郎は、少しだけ前かがみになるような独特の歩き方で座敷へと上がりながら、重兵衛と松室に挨拶をし、本が入っているらしき風呂敷包みを半之助に手渡した。
「これを参考にして読んでおいてくれないか? 新井白石(あらいはくせき)が書いたものの写本なんだ。まだ本になって出版されていないものだけど、『東雅(とうが)』というタイトルの書物でね。巻の十三から十六まであって、穀物や野菜、そして草木の部門まで、言葉の意味や分類がまとめられているんだ。そのうち本草綱目(ほんぞうこうもく)の研究をするときに役立つからさ」
半之助は少し不機嫌そうにその包みを受け取った。
それからみんなで酒を飲み始めたが、平四郎の言った通り、宴会が終わるまで何事も起こらなかった。
やまない雨
一
八月に入るとすぐ、予定よりも少し早かったけれど、半之助は駒場(こまば)へと引っ越した。
母親はそれまで何も知らされていなかったので、もう二度と会えなくなってしまう別れであるかのように、何も相談してくれなかったことを怒り、「私もいっしょについていく!」と泣き出したため、なだめるのにはかなり苦労した。
――月に二度くらいは必ず帰ってきますから。
――それなら、わざわざそんなにたくさんの荷物を持っていく必要はないでしょう。
――荷物といっても、おもに本なんですよ。
そんな問答も繰り広げられた。
また、駒場での生活はおそらく退屈だろうと考えたので、読みたいと思いながらもこれまで読めずにいた本を、仏教関係の難しい本までまとめて包み込んだ。
その準備のために、二日ほど土蔵の中をごそごそとかき回していたのだが、祖父の蔵書が入っている長持(ながもち)の中を調べていると、妙なものを見つけ出した。
油紙でやけに丁寧に包まれた書類のような包みがあり、その表には「厳秘」と父親の直筆で書かれていた。
――いったいなんだろう?
しばらくじっと見つめていたが、「厳秘」と書いてあるところから、もしかすると他人には絶対に見られたくない父親のプライベートな私物かもしれないと思い、そのまま元の場所へ戻そうとしたその瞬間、半之助は「あっ」と声をあげた。
――あれだ!
それは、叔父の形見の品だった。
五番町に住んでいた遠藤兵庫(えんどうひょうご)が不思議な失踪をしたあと、下僕が持ってきてくれたもので、中には「甲府勤番(こうふきんばん)」の頃の日記や見聞記、さらに「かんば沢」に関する調書などが、入っているはずのものだった。
半之助は十数年前に一度その包みを開け、それらの手記を目にしたことがあったのだ。
その後、父親がどこかへしまい込み、半之助自身もすっかり忘れてしまっていたのである。
彼は胸が熱くなるような懐かしさに包まれ、その包みも大切な荷物の中にいっしょに加えた。
青山主馬は、山村座の茶屋から連れ去られた翌日、無事に自分の家へと帰ってきた。
――裁判の記録を役所の外まで持ち出したことについて、ちょっとお叱りを受けただけさ。
彼はそう言っていたが、それだけではないことは、さすがの半之助にも十分に想像がついた。
やはり、反・柳沢(やなぎさわ)派のゴタゴタであり、お互いの勢力を威嚇し合ったり、騙し合ったりする権力闘争の一つなのだろう。
そして、主馬自身も、村田平四郎も、少しも動揺していなかったように、そこには半之助のような若者には到底わからない、複雑な政治の裏工作があるに違いなかった。
――いやな話だな……。
心配したぶんだけ余計に、半之助はうんざりした気分になった。
主馬が無事に帰ってきてから間もなく、村田平四郎がまた遠い旅へと出かけていった。
例の植物の分布を調べる調査のため、信濃(しなの)から越後(えちご)の南部にかけての地域をまわってくるのだという。
お供の従者を二人連れていたが、出発のあいさつにやってきたとき、村田はいつもの静かな口調で、「――頼むよ」と言い、じっとこちらの目をまっすぐに見つめた。
薬用の苗木や種子を送るから、そのときは受け取りや栽培を頼むという意味だろう。半之助はうなずいたものの、どうにも晴れやかな顔にはなれなかった。
――一年くらいは帰ってこられないかもしれない。
村田はそう言い残して、旅立っていった。
「これでようやく、自分ひとりになれる」
駒場へと引っ越したその日、半之助は心底ほっとしたような気持ちで、そう小さく呟いた。そして、退屈ではあるけれど静かで落ち着いた生活が始まりました。
そこは上目黒の北のはずれに近く、赤坂御門(あかさかごもん)から西へ一里と何十町かいった、大山街道の右側にありました。
宮益坂(みやますざか)という場所までは、とぎれとぎれではあるものの町家や武家屋敷が並んでいましたが、坂を下りて赤羽川(あかばねがわ)の上流にあたる小さな川を越えると、そこはもうすっかり武蔵野の景色そのものでした。
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