関所の番人である「関守(せきもり)」は小橋甚兵衛(こばしじんべえ)という与力で、この人と激しく言い合っているのは、次高来太(つぎたからいた)だった。
「これは、これは」
杉戸のすき間からのぞき見て、主馬は低く驚きの声をあげた。
「みじん流の先生がいるとは思わなかったな」
平四郎は何も言わずに黙っていた。
そこで主馬は、次高来太は本当は柳沢家の家臣ではなく、みじん流という剣術の腕前は相当なものらしいけれど、ただ雇われているだけの用心棒にすぎないのだと、平四郎に説明した。
「そんな馬鹿な理屈があるか!」
来太は太くて短い眉をピクピクさせ、肌の色が黒く、頬骨の出た顔で、相手を威圧するように高い声で怒鳴りつけた。
「御大老(ごたいろう)が甲府城へ行かれてから、お使いの人や荷物を積んだ馬がこの道を往復しない日はないと言ってもいいくらいだ。まして今年に入ってからは、お城を修理するためにたくさんの荷物が甲府へ送られている。そうじゃないのか!」
「自分はこの月のほうへ着任したばかりで、そういうことはまだ知らない」
小橋与力は冷ややかに答えた。
けれど、その態度はあまり強気ではなく、それほど自信があるようにも見えなかった。
「知らなかったら、いま覚えるといい!」来太は言った。「これまでの決まりはともかくとして、このとおり特別に御老中のご朱印が押された通行許可証を掲げているんだ。検査を受けるような理由はどこにもないはずだし、御大老である柳沢家のお顔にかけても、そんな不当な扱いは絶対に承知できない!」
「そう言われましても、私はこの関所の番人ですし、急ぎのお使いの者からそういうふうに命令されたものですから……」
「急ぎのお使いの者だと……?」来太は目を三角につり上げた。「ということは、この荷物に限って特別に調べろという意味なのか!」
「それは、どちらとも……」
小橋与力は言葉につまった。
関所に対する急ぎの命令となると、だいたいが大変な緊急事態の場合だろうから、詳しい内容を簡単に他人に話すわけにはいかないのだ。
また、関所というものはその土地の領主や代官などに管理されているものだから、その「急ぎの命令」が一体どこから出されたものなのかという点についても、大きな問題が関わってくるのだった。
小橋与力があいまいな返事をするのを見て、次高来太は鋭く追い打ちをかけた。
「もしこの荷物だけに絞って検査しろという命令があったのだとしたら、それは絶対に聞き流すわけにはいかない! それは明らかな政治的ないんちきだ。その命令がいったいどこから、誰のしわざで出されたのか、はっきり聞かせてもらおう!」
「無茶苦茶なことを言うな!」
「無茶苦茶なのはそっちだ!」
すでに来太は、相手の自信がぐらついてきているのを見抜いていた。「小仏の関所ではなんのトラブルもなかったし、道中のルールもちゃんと守っている。大老である柳沢(やなぎさわ)さまの荷物なのに、この関所に来て急に検査の命令が出るなんて、その理由やどこからそんな命令が出たのかを尋ねるのが当然じゃないか!」
「しかしそれは、この荷駄だけに特別にというわけではなくてですね……」
「まぎらわしいことを言うな! そなたはこの関所の関番(せきばん)だろう!」来太は怒鳴り声をあげた。「場合によっては江戸へ戻って、老中や大目付(おおめつけ)に訴えてやる! その急使はどこから来たのか、誰が出したのかその名を言いなさい。それまでは断じてここを動かないからな!」
世間一般にいえることだが、不正をする人間ほど、態度が大きくて堂々としていて、まるで正義の味方のような口をきくものだ。
来太の鋭い口調も、その圧力的な態度も、まさにそういうタイプのものにそっくりだった。
見ていて、小橋甚兵衛(こばしじんべえ)がすっかり困っているのは明らかだった。
できることなら、相手の要求どおりにしてやりたかっただろう。
しかし、それは絶対に無理な相談だった。
その荷物を厳しく検査しろという指示は、今日初めて顔を合わせた青山主馬(あおやましゅめ)からの通達だったからだ。
主馬は「遠国鉄炮改(えんごくてっぽうあらため)」役である仙石丹波守(せんごくたんばのかみ)の証明書を示して、その旨を伝えてきたのだ。
小橋与力はもちろん主馬のことなど知らない。
もし主馬が身分を偽っていて、証明書も偽物だったとしたら、相手はあの柳沢さまの荷物なのだから、関所の責任者である自分にとって大変な重大責任問題になってしまう。
小橋甚兵衛はしがない役人だった。
役人というものは、それが自分の利益にならない限り、できるだけ面倒な責任を避けようとする習性がある。
ましてや、巨大な権力相手ならなおさらだった。
……杉戸のすき間から様子を覗いていた主馬は、小橋与力の心が折れかけているのをすぐに察知した。
「これはいけない、押し切られてしまうぞ」
彼は平四郎のほうを振り返った。
「どうしよう、私はあのみじん流の奴に顔を見られているから、自分が出るのはまずいんだ。でも、あの関所番の人は降参しそうだよ」
「じゃあ、ぼくが出てみようか」
「ぜひお願いしたい、頼む!」主馬は素早く何かを手渡した。「遠国鉄炮改役の仙石丹波守殿の証明書です」
平四郎はそれを受け取ると、懐にしまいながら、取調室の縁側へと出て行った。
主馬は自分の手をスリスリとこすり合わせた。
長い付き合いだが、平四郎の性格はまだよくわからない。少なくとも、あの安倍半之助(あべはんのすけ)ほどには――。しかし、今こそ分かるだろう、彼がどれほどの度胸と才知を持っているのかが。
主馬はもう一度、手をこすり合わせた。
取調室の、靴を脱ぐ場所まで降りていった平四郎は、そこにいた役人(同心)の一人に耳打ちをした。
「鉄砲に火縄をかけろ」
そう言ったのである。
もちろん、周りの誰にも聞こえない声だった。
耳打ちされた同心は、すぐに担当の者にその指示を伝えた。その一方で、平四郎は次高来太(つぎたからいた)のほうへ声をかけた。
すぐに向き直ったわけではない。まずは小橋与力に会釈をし、与力が(また新しい人物が現れたことに)びっくりして目をパチパチさせている間に、ゆっくりと来太のほうへ向き直ったのだ。
「いま控え室で聞いていたのですが、しきりに『御大老(ごたいろう)』とおっしゃっていましたが、御大老とはいったい誰のことですか?」
「御大老が誰をさすだなんて!」来太は歯を剥き出した。「一体お前は誰だ!」
平四郎は黙って相手を見つめた。
呼吸を五回ほどするあいだ、上から見下ろすように、何の表情も見せずにじっと見つめた。
それから、落ち着いた声で言った。
「関所の役人に対しては、言葉を慎んでお答えなさい。そなたの言う御大老とは、いったいどなたのことですか?」
「言うまでもない、柳沢美濃守(みののかみ)さまだ!」
「それはおかしいな。何か間違いではありませんか?」
口ぶりは穏やかだったが、その声のトーンにはずっしりと重みと力がこもっていた。
目をまっすぐに相手に向けたまま、平四郎はゆっくりと言った。
「元禄(げんろく)十三年三月に井伊(いい)侯が辞任されて以来、大老に任命された人などいないはずだ。
初級翻訳・山彦乙女 第35話
山彦乙女
コメント