初級翻訳・山彦乙女 第41話

山彦乙女

そこから流れ落ちる水が合流して甘利沢となり、釜無川へと注いでいくのですが、その三つの谷の中で一番北側の森の中に、彼は自分の拠点(居どころ)を定めました。
斜面が急で二つの山肌にはさまれているため、森の幅はあまり広くありません。それに二百歩ほど下ると、落葉樹のまばらな林地帯になってしまいます。
そこは少し狭いものの、ちょうど良い岩穴があって荷物や食料も置けるため、彼一人が寝起きするにはとても都合が良かったのです。
冬になったら、入り口に少し工夫を凝らせば、寒さも十分に防げそうでした。
三月にここへ入ってからというもの、彼はほとんどその場所から動かずに過ごしていました。
もし地元の村人に見つかったとしたら――「ただの二、三年、心身をきたえるために山ごもりをしているのです」と説明するつもりでいました。しかしそのためにも、誰かと知り合い、ある程度打ち解けるまでは、むやみに出歩いて彼らに疑われるような真似は避けなければならない、と考えていたのです。
ここへ落ち着いてから間もなく、彼は「ほっほう……」というあの呼び声を聞きました。
山や谷にこだまする、透明で柔らかいその声を、初めのうちはカッコウの鳴き声だと思いました。
しかし、あとになって「丸茂」の裏で聞いた声とそっくりであることに気づいたのです。
そして、それが鳥の鳴き声ではなく若い女性の声なのだとわかりましたが、当時は特に深く気にとめることはありませんでした。
江戸とここではあまりにも距離が離れすぎていますし、「丸茂」の豪奢(ごうしゃ)な世界と、人の気配すらないこの山奥とでは、どう結びつけてよいのか分からないほど条件が違いすぎていたからです。
そして四月に入り、今から五日ほど前、ついにその声の持ち主と出会ったのです。
半之助がちょうど、岩で作ったテーブルの上で昼ごはんを食べていたときのことでした。
下の林のほうで、ガサガサと草木が揺れる音がし、人の声が聞こえてきました。
猟師でも来たのだろうか、と思っていると、森の中を流れる小さな沢の向こう側へと、いきなり彼女が現れたのです。
いつの間にそんなところまで登ってきたのか、その現れる早さと全く物音がしなかったことに対して、半之助は心底からぎょっとしました。
彼女のほうも驚いたようで、ピタッと立ち止まり、目を大きく見張り、口を少しポカンと開けたまま、じっとこちらを見つめました。
木の葉のすき間から差し込む日の光が、上から彼女を照らしていました。
青みがかった深く暗い森を背景に、明るい光に照らし出された彼女の姿は、まるでこの世のものとは思えない神秘的な彫像のようで、半之助に強烈な印象を与えたのです。
――こちらへ小さな小熊がやってきたのを知らない?
彼女はそう尋ねてから、半之助のほうへと近づいてきました。
――親からはぐれたのか、まだごく小さな小熊が迷い込んじゃったの。かわいそうだから捕まえて家で飼ってあげようと思って、さんざん追いかけてきたんだけど、すっかりお腹がペコペコでおうちに帰るまでがまんできないの。もしよかったら、そのご飯を食べさせてくれない?
恥ずかしがる様子もなく、自分は「みどうの花世」という名前だ、と彼女は告げました。
四

朝の残りの味噌汁をかけた、すっかり冷たいご飯を、花世はおいしそうに三杯もおかわりして平らげました。そして食べている間中、ひっきりなしにペチャクチャとおしゃべりを続けました。
――どこから来たの? どうしてこんなところにいるの? お家はどこ? お名前はなんていうの?
次々と質問を投げかけながらも、こちらに返事をする隙すら与えず、また自分の楽しそうなおしゃべりを始めるのです。
半之助は苦笑いしながら、どこまでが本当のことなのか分からない話を、おとなしく聞いていました。
――自分はこういう場所で、こんなふうにご飯を食べるのがとっても好きなの。今度また来てもいい?
――どうぞ、いつでもいらっしゃい。
――じゃあ、来るときにはこういう合図をするからね。
そう言って、彼女はあの「ほっほう」という呼び声を披露してくれました。
さらに、これは小鳥たちを集める魔法の声で、この山にいる小鳥たちはみんな自分の家来なのだと言い張りました。今度はその小鳥たちを連れてきて見せるからね、と誇らしげに語ると、元気いっぱいに駆けて帰っていったのでした。叔父の手記によれば、みどう家は、巨摩郡全体の土着民から、ひそかに領主のような尊敬を受けているそうである。
そのために、甲府城代はしばしば探査を試みたし、現に遠藤兵庫も、同じ目的で山入りをした。
叔父は売薬の行商人に身をやつして来たのだが、みどう家を探査するという目的を感づかれて、土地の者からひどい扱いをされた。
半之助は、そのみどう家の娘と知り合ったのである――しかも求めずして。
これは僥倖というべきである。
決して事をいそいではいけない。花世がみどう家の娘である以上、彼女と親しくなれば、やがて住民たちとも敵意のないつきあいができるようになるかもしれない。
彼はこう思って、さらに行動を慎んでいた。
花世が今日やって来て、「あたし来たでしょ」などといばったが、あれ以来それが初めてで、いくらか言いわけの意味があったのかもしれない。
むろん、そんなことには少しも拘泥せず、古い友達かなんぞのように楽しそうに食べて話して帰った。
「この調子でゆけばいい」
半之助は今、自分の覚書にそう記した。
但し今夜のことは、問題がべつである。
四月十一日の夜半には、亡霊の武者たちの行列がある。
それにどんな秘密があるかわからないし、花世もきびしく警告したが、年にいちどしかないその行列はどうしても見ておきたかった。
「この日は、早朝、法螺貝の合図で始まった」
彼は口で呟きながら、こう書いて、筆を置いた。

夜の矢声

一

篝火が四つ、火花をちらしながら炎々と闇を焦がしていた。
そのゆらめく光りが、巨きな杉の樹立と、大社づくりの古びた神殿と、その前に設けられた方四間の舞台を照らしだしていた。
神殿の廂には四つ目菱の紋を打った幕が張ってあり、扉を開いた内陣に、白の大口に腹巻を重ねた老人(それはみどう清左衛門であった)が一人、神燈を護るかのように端坐しているのが見える。
きざはしの下に二人、大鎧を着た部将が床几に掛けている。
そこから舞台の左右へ、黒い甲冑の武者たちが およそ五十人ばかり、それぞれ背に※物を立て、槍、長巻、弓などを手に居並んでいた。
笛、鼓、太鼓の下座が、ひなびた緩い拍子の曲を奏し、舞台の上では登世と花世の姉妹が舞っていた。
それは「羽衣」らしいが、曲も舞の手振もひどく古風でおもむきの変わったもので、はっきりそうとはいえなかった。
登世が天女、花世が漁夫をつとめている。
鼓や笛の音が杉の樹立に高く反響し、姉妹のうたう声の澄みとおるような美しい呂律が、これらのうえに神秘的な印象を与えていた。
武者たちはみな白の鎧下を着、兜の目庇から白い布を垂れている。
兵庫の手記にあったとおりの異様な姿で、ひと言も口をきかず、身動きもしなかった。
――これが薪能というものかもしれない。
半之助はそう思った。

コメント

タイトルとURLをコピーしました