初級翻訳・山彦乙女 第51話

山彦乙女

……ふたりの目の前はすぐに崖になっていて、その下には深い森に覆われた谷(そこはすっぽりと霧に包まれていた)が広がっていた。
谷の向こう側には、甲斐駒ヶ岳の連峰の一部が、思いのほかものすごく間近に迫ってそびえ立っていた。
あまりの雄大さに、彼は少し圧倒されてしまった。
どこか遠くの、ずっと下のほうから、かすかに渓流の水の音が聞こえてくる。
それ以外には、まわりには何の物音もしなかった。高くまで昇った月の青く透明な光を浴びて、ずっしりと重たく、厳かな様子で眠っている山々の中で、法王山の峰だけがひときわ白く、キラキラと輝くように突き出て見えました。
「やっぱり乙女の言ったとおりだったでしょ」
彼女もうっとりした声でそう言いながら、半之助を見つめました。
「まるで雪の宮殿みたいでしょ」
半之助は黙ってうなずきました。
彼は座っている自分の膝を立て、それを両手で抱えながら、すっかり心を奪われたような目で、じっとその山に見入っていました。
「少し寒くなってきたわ。寄りかかってもいいかしら」
花世はそう言いながら、彼のほうへとそっと体を寄せました。
お化粧の香りが、甘く、それでいて爽やかに彼を包み込みました。
半之助には、その山々がまるで厳格な死のようにも思えたし、同時に永遠に滅びない命のようにも思えました。
それは、世の中のあらゆる秘密を知り尽くしながらも何も言わず、すべてが滅びる時がやってくるのを、いつまでも永遠に、じっと辛抱強く待っているかのように見えたのです。
「――五百年、千年の昔にも、私たちがこうして眺めているように、誰かがこんなふうにして、あの山を眺めていたかもしれないね」
半之助がゆっくりと、ささやくように言いました。
すると花世は、彼のほうにその柔らかい肩をもたせかけながら、うなずきました。
「ええ、そうね、きっとそうだわ」
「これから五百年、千年の後にも」と、半之助は言葉を続けました。「また別の誰かがここへやって来て、同じようにあの山を眺めるんだろうか」
「ええ、たぶん……」
花世は小さくあくびをしました。
本当は、彼はこんなふうに言いたかったのです。
過去も現在も、未来も、人間はずっとこうして生きてきて、悩んだり苦しんだったり、愛したり憎んだりしながら、やがて死んでいって、忘れ去られてしまう。
どんなにかたい石に刻んだ記念碑だって、いつかは錆びて、欠けて朽ち果て、この世から消えてなくなってしまう。
武田一族だって滅びてしまったし、武田信玄が残したという、伝説の石棺のようにおぼしい、たくさんの宝物を隠した伏岩だって、とっくに崩れ去ってしまった。
人間がしてきたこと、いましていること、そしてこれからしようとすることは、すべてが長い時間の流れの中に、すっかりかき消されてしまうんだ。
――だけど、たった一つ確かなのは、自分がいまこの瞬間に生きているということ、生きていて、物事を考えたり、悩んだり、苦しんだり、愛し合ったりすることができるということだ。
――そんなふうなことを、彼は口に出して言いたかったのです。
でも、言葉にするにはあまりにセンチメンタルすぎたし、なんだかぼんやりとしていてうまく言えませんでした。
もたれかかっている花世の柔らかい肩が、温かく、しんなりと重んくなってきて、気がつくと彼女はどうやらウトウトとうたた寝をしているらしく、かすかに、とても安らかな寝息が聞こえてきました。
「眠っちゃいけないよ、風邪をひいちゃうから」
半之助は彼女の肩へとそっと腕を回しながら、優しくささやきました。
花世は「うふん」とかわいい鼻声をあげ、抱きしめられた腕の中で彼のほうへ体をすり寄せると、そのまま頭を彼の肩の上へとコテンと乗せてしまいました。
ぎゅっと閉じた目の、長いまつげが、月の光に照らされて下まぶたに影を落としています。
……うぶ毛が生えた、すべすべのなめらかな頬、きれいなかたちでやわらかく波打っている唇、あまり高くはないけれど、ふっくらとしていてとても可愛い鼻。
それらはすぐ目の前にあって、ほとんど触れ合ってしまいそうなほどの距離にありました。
……お母さんのミルクの匂いのように、彼女の寝息が甘く香りました。
それはすべてを包み込むような、ほのかに甘くて、温かい匂いでした。
それは寝息だけでなく、肌そのものからただよう匂いも混ざっているようでした。
――おしゃべりをしすぎて、すっかり疲れてしまったんだな。
半之助はそう思いながら、ふと微笑みを浮かべ、片方の手でそっと、まるで壊れ物を扱うかのように優しく彼女の髪をなでました。
花世はまた可愛い鼻声をたて、まるで子猫が母親のおなかのなごみを探すみたいに、肩と頭を彼のほうへすりつけてきました。
彼が抱きしめる腕に少し力を入れると、彼女の体はさらにしんなりと心地よい重みとなり、ふと片方の手を、彼の着物のえりから、そっとふところへと差し入れました。
「――乙女……」
彼は口の中で小さくつぶやきました。
そして、彼女の髪へとそっと自分の頬を寄せました。
それはひんやりと冷たかったけれど、その冷たさは、何か大切なものをしっかりと伝えるための冷たさでした。
彼女の内側から彼の内側へと、まるで「命そのもの」と言えるような何かを、じかに手渡してくれているかのように感じられたのです。
――おれは生きている。
半之助は心のなかでそっとつぶやきました。
――生きていけるんだ。
まるで胸が締めつけられるような痛みにも似た、深い感動が、彼の胸のなかで力強く広がっていきました。
彼は、ふところに入ってきた花世の手を自分の手で上からそっと押さえ、目を閉じて、(その胸いっぱいの感動を確かめるように)じっと息をひそめました。
すると、半之助の閉じられた目から、ぽろりと涙があふれ落ち、それが花世の髪の毛の中へと吸い込まれていきました。
深い谷間から、まるですっぽりと月光に濡れたような白い霧が、静かに、ふたりのほうへと巻き上がってきたのでした。

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