初級翻訳・山椒大夫 第3話

山椒大夫

しかし大夫はそれを押しとどめ、「宿代はもらわない、だがお金の入っていた大切な袋のほうは預かっておこう」と言いました。
どんなものでも大切な貴重品は、宿に着けば宿の主人に、船に乗れば船の主人に預けるものなのだ、というのです。
子どもたちの母親は、最初に宿を借ることを許してもらったあたりから、主人の大夫の言うことに従わざるを得ないような奇妙な雰囲気に巻き込まれていきました。
禁じられた掟を破ってまで宿を貸してくれたことに対してありがたくは思っても、何から何まで大夫の言いなりになるほど、心の底から大夫を信頼しているわけではありませんでした。
このような関係になってしまったのは、大夫の言葉には人を従わせる圧倒的な強さがあり、母親にはそれに逆らうことができなかったからです。
そして、その逆らうことができないというのは、大夫のどこかに恐ろしいものが感じられたからでした。
しかし母親自身は、自分が大夫を恐れているという自覚はありませんでした。
自分の心がどうなっているのか、はっきりと分かっていなかったのです。
母親は、まるで仕方なくそうするほかないといった重い心持ちのまま、舟に乗り込みました。
子どもたちは、穏やかな海の青い敷物を広げたような水面を見て、その珍しさに胸を躍らせながら乗り込みました。
ただ姥竹の顔には、きのう橋の下を立ち去ったときから、今こうして舟に乗る瞬間まで、不安の色が消え失せることはありませんでした。
山岡大夫は舟をつないでいた縄(纜:ともづな)を解きました。
そして岸を一押しすると、舟はゆらゆらと揺れながら水面へ漕ぎ出しました。

山岡大夫はしばらく岸に沿って南へ、越中の国境の方角へ向かって漕いでいきました。
朝もやは見る見るうちに消え去り、波が太陽の光にきらきらと輝いています。
人家のない岩の陰に、波が砂を洗い、海松(みる)や荒布(あらめ)を打ち上げている場所がありました。
そこには二艘の舟が止まっていました。
そこにいた船頭が大夫を見て声をかけました。
「どうだ。
いいのはいるか」
大夫は右手を挙げ、親指だけを折り曲げて見せました。
そして自分たちもその場所へ舟を寄せました。
親指だけを折ったのは、「客が四人いる」という合図でした。
先にいた船頭の一人は宮崎の三郎といい、越中宮崎の者でした。
彼は左手の拳を開いて見せました。
右手が人数(かぞえ)の合図であるのに対し、左手は銭(お金)の合図になります。
これは「五貫文(ごかんもん)」に値段をつけたということでした。
「負けないぞ」ともう一人の船頭が言い、左の腕をぐっと伸ばして一度拳を開いて見せ、続いて人差し指をピンと立てて見せました。
この男は佐渡の二郎であり、「六貫文」の値打ちをつけたのです。
「強欲な奴め!」と宮崎が叫んでつかみかかろうとすれば、「出し抜こうとしたのはお前の方だろう」と佐渡も身構えました。
二艘の舟が大きく傾き、船べりが水面を激しく叩きました。
大夫は二人の船頭の顔を冷ややかに見比べました。
「あわてるな。
どちらも手ぶらで帰すようなことはしない。
お客さまたちが窮屈にならないように、二人ずつに分けてやろう。
賃金はあとでつけた値段の割り勘だ」
こう言い置いてから、大夫は客のほうを振り返りました。
「さあ、お二人ずつあの舟にお乗りなさい。
どれも西国への便り船(べんせん)ですよ」「舟は、あまり重たくなっては進みが悪くなるからね」
二人の子どもは宮崎の舟へ、母親と姥竹は佐渡の舟へと、大夫が手をとって乗り移らせました。
舟に移したあと、大夫の手のひらに、宮崎も佐渡もそれぞれ何本もの銭の束を握らせました。
「あの、主人に預けましたお金の入った袋は……」
姥竹が主人の袖を引こうとしたそのとき、山岡大夫はからっぽの舟を力いっぱい押し出しました。
「わしはこれでお暇(いとま)するよ。
確かな手から、確かな手へと引き渡すまでがわしの役目だからね。
それではご機嫌よう、お元気でお行きなさい」
じゃあ、という船の軋(きし)む音が慌ただしく響き、山岡大夫の舟はみるみるうちに遠ざかって行きます。
母親は佐渡の船頭に尋ねました。
「同じ道を漕いでいって、同じ港に着くのでございますよね?」
佐渡と宮崎は顔を見合わせると、声を立てて笑いました。
そして佐渡が言いました。
「乗る舟は仏の導きの舟、着く先はどちらも同じ極楽浄土だ、と蓮華峰寺(れんげぶじ)の和尚も言っていたっけな」
二人の船頭はそれきり黙って舟を漕ぎ出しました。
佐渡の二郎は北へ。
宮崎の三郎は南へ。
「あれっ、あれっ!」と呼びかわす親子と主従ですが、舟はただ遠ざかっていくばかりです。
母親はまるで気がおかしくなったように船のへりに手をかけ、身を乗り出しました。
「もうしかたがない。
これが本当のお別れだよ。
安寿はいつも守ってくださるお地蔵様を大切にするんだよ。
厨子王はお父様からいただいたお守りの刀を大切にするんだよ。
どうか二人、離れ離れにならないでおくれ」
安寿は姉娘の名前で、厨子王は弟の名前です。
子どもたちはただ「お母様、お母様」と叫ぶばかりです。
舟と舟とは次第に離れていきます。
後ろ姿はまるでエサを待つ雛鳥(ひなどり)のように、二人の子どもたちのポカンと開いた口が見えるだけで、もう声は聞こえません。
姥竹は佐渡の二郎に「もし、船頭さん、もしもし!」と声をかけていましたが、佐渡がまったく取り合わないので、とうとうその赤松の幹のようにごつごつした足にしがみつきました。
「船頭さん。
いったいこれはどういうことでございますか。
あのお嬢様や若様と別れて、わたしたちは生きてどこへ行けばよいのでしょう。
奥様だって同じことでございます。
これから何を頼りにして暮らしていけばよいのですか。
どうかあの舟が行く方へ、船を漕いで行ってくださいまし。
お願いです、一生のお願いでございます!」
「うるさい!」
佐渡は後ろ向きに足を突き飛ばしました。
姥竹は舟の中にドスンと倒れ込みました。
髪は乱れて船のへりにかかりました。
姥竹はふらふらと身を起こしました。
「もうだめだ。
これまででございます。
奥様、お許しくださいまし!」
そう叫ぶと、姥竹は頭からまっさかさまに海へ飛び込みました。
「おっと!」
船頭は腕を伸ばしましたが、間に合いませんでした。
母親は着ていた上着(袿:うちぎ)を脱ぎ、佐渡の前に差し出しました。
「これはつまらないものでございますが、今までお世話いただいたお礼に差し上げます。
わたしも、これで失礼させていただきます」
そう言うと、母親は船のへりに手をかけました。
「このバカ者が!」
佐渡は母親の髪をつかみ、力任せに引き倒しました。
「お前まで死なせてたまるか。
大事な商品(たから)なんだからな!」
佐渡の二郎は荷造り用の縄(牽綱:ひきづな)を取り出すと、母親をぐるぐる巻きにして転がしました。
そして、北へ北へと舟を漕いでいきました。
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「お母様、お母様!」と呼び続ける姉と弟を乗せて、宮崎三郎の舟は岸に沿って南へと進んでいきます。
「もう呼ぶんじゃない」
宮崎は怒鳴りつけました。

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