初級翻訳・山椒大夫 第8話

山椒大夫

ただ手を引き合っている手に、ぐっと力を込めるだけである。
これから山に登ろうとする場所に、大きな沼があった。
沼のほとりには、去年見たときと同じように、枯れた葦(あし)が縦横に乱れて生い茂っていたが、道端の草には黄ばんだ葉の合間に、もう青い新芽が出始めているのが見えた。
沼のほとりから右に折れて山道を登っていくと、そこに岩の隙間から冷たい清水がコンコンと湧き出る場所があった。
そこを通り過ぎて、ごつごつした岩壁を右に見ながら、うねうねと曲がった道を登っていく。
ちょうど岩の表面に、まぶしい朝日の光が一面に差し込んでいた。
安寿は、重なり合った岩の、風化してできた隙間に根を下ろして、ひっそりと咲いている小さなスミレの花を見つけた。
そしてそれを指さして、厨子王に見せながら言った。
「ごらん。
もうすっかり春になるんだね」
 厨子王は黙ってうなずいた。
姉の胸には深い秘密がしまい込まれており、弟の胸には心配や不安ばかりがいっぱい詰まっているので、どうしても上手に会話が続かず、二人の話はまるで水が砂にスッと沁み込むように、途中で途切れてしまうのだった。
去年、一緒に柴(たきぎ)を刈った木立ちのほとりまで来たとき、厨子王はふっと足を止めた。
「ねえさん。
このあたりで柴を刈るのですか?」
「ううん、もっと高いところへ登ってみましょうね」安寿はそう言って先に立ち、ずんずん山を登っていく。
厨子王は「どうしてだろう?」と不思議に思いながらも、その後をついていった。
しばらく歩いて、雑木林よりもずっと高い、外山の頂(いただき)とも呼べるような場所までやって来た。
安寿はそこにぴたりと立ち止まり、じっと南の方を見つめた。
その目は、石浦を通って由良の港へと流れる大雲川(おいくもがわ)の上流をたどっていき、一里(約4キロメートル)ほど離れた川の向こうにある、こんもりと茂った木立ちの中から塔の先がちょこんと見えている「中山」という場所にピタリと止まった。
そして、「厨子王や」と弟に呼びかけた。
「わたしがずっと前からいろいろと考えていて、お前ともいつものようにおしゃべりをしなかったから、変だと思っていたでしょうね。
もう今日は柴なんか刈らなくてもいいから、わたしの言うことをよく聞いてちょうだい。
小萩は伊勢から売られてきたから、故郷からこの土地までの道のりをわたしに話して聞かせてくれたんだけどね、あの中山を越えて進んでいけば、都がもうすぐそこなんだよ。
遠い筑紫(九州)へ行くのはとても難しいし、今さら引き返して佐渡へ渡るのも、決して簡単なことではないけれど、都へならきっとたどり着くことができるはずよ。
お母さまとご一緒に岩代の館を出てからというもの、わたしたちは恐ろしい人ばかりに出会ってきたけれど、人の運が開けていくときなら、きっと優しい良い人にも出会えるものよ。
お前はこれから、思い切ってこの土地を抜け出して、どうか都へ上っておくれ。
神様や仏様のお導きで、良い人さえ見つかったら、筑紫へ流されてしまったお父さまの安否だってみきっと分かるはずよ。
佐渡へ行って、お母さまをお迎えにあがることもきっとできるわ。
籠や鎌はここに置いて、※子(しょいこ=荷物を背負う道具。※は「草かんむりに且」)だけ持って行くんだよ」
 厨子王は黙ってその話を聞いていたが、こらえきれず、ぽろぽろと涙が頬を伝って流れ落ちた。
「それじゃあ、姉えさん……あなたはどうしようというのですか?」
「わたしのことは気にしないで。お前一人でするはずの決心を、わたしも一緒にするつもりでやっておくれ。
いつかお父さまにもお目にかかって、お母さまも島からお連れしてくれたあとで、今度は私を助けに来ておおくれ」
「でも、僕がいなくなったら、あの人たちがあなたをひどい目に合わせるよ……!」厨子王の心には、絶対に忘れないあの恐ろしい夢の光景が浮かび上がってきた。
「それは、いじわるをされるかもしれないけれどね、わたしはしっかり我慢して見せるわ。
お金を出して買った奴隷の女の子を、あの人たちは殺したりはしないから。
きっとお前がいなくなったら、わたしに二人分の仕事をさせようとするでしょうね。
お前が教えてくれたあの木立ちのところで、わたしは柴をたくさん刈るわ。
昔みたいに六荷(ろっか)までは刈れなくても、四荷でも五荷でも頑張って刈ってみせるから。
さあ、あそこまで一緒に降りていって、籠と鎌をそこに置いて、お前を麓(ふもと)まで見送ってあげるね」
安寿はそう言うと、また先に立って山を下り始めた。
厨子王はどうするべきか心が決められず、ぼんやりとした足取りでその後をついて下りていった。
姉は今年で十五歳になり、弟は十三歳になっていたけれど、女の子のほうが早く大人びるうえに、まるで何か不思議なものに憑かれたかのように、あまりにも聡(さと)く賢くなっていたので、厨子王には姉の言葉に逆らうことなどとてもできなかった。
木立ちのところまで下りてきて、二人は背負っていた籠と鎌を、カサカサと音がする落ち葉の上にそっと置いた。
姉は懐から肌身離さず持っていた「守り本尊(小さなお地蔵様)」を取り出すと、それを弟の手にしっかりと手渡した。
「これはとても大切なお守りだけど、次にまた会えるまで、お前に預けておくわ。
このお地蔵様をわたしだと思って、護り刀(まもりがたな)と一緒に、大事に持って持っていてちょうだい」
「でも、姉えさんにそんな大切なお守りがなかったら……!」
「ううん、いいの。
わたしよりも、これから危ない目に遭うかもしれないお前にお守りを預けるの。
夕方になってお前が帰ってこなかったら、きっとお前を探す追っ手がかかるはずよ。
お前がどんなに急いだところで、普通に逃げていっては、すぐに追いつかれてしまうにきまっているから……」さっき見た川の上手を和江というところまで行って、うまくいけば人に見つからないように向こうの岸へ渡ってしまうんだよ。そうすれば中山までもうすぐだ。
そこへ行ったら、あの塔が見えていたお寺に入って、隠してもらいなさい。
しばらくあそこに隠れていて、追っ手が帰ったあとで、お寺を逃げ出してきなさい」
「でも、お寺の坊さんが僕を隠しておいてくれるでしょうか」
「さあ、それは運だめしだよ。
これから運が開けていくなら、きっと坊さんがお前を隠してくださるわ」
「そうですね。
姉えさんが今日おっしゃることは、まるで神様や仏様がおっしゃるようです。
僕は決心しました。
なんでも姉えさんの言う通りにします」
「うん、よく聞いておくれね。
坊さんは良い人だから、きっとお前を隠してくださるわ」
「そうだ!
僕にもそうなんだって思えてきたよ。
ここから逃げて、都へだって行けるんだ。
お父さまやお母さまにもきっと会える。
そして姉えさんをお迎えに来ることもできるんだ!」厨子王の目は、姉と同じようにキラキラと輝きだした。
「さあ、麓(ふもと)まで一緒に行くから、早くおいで」
 二人は急いで山を降りた。
足取りもさっきまでとは違って、姉の熱い気持ちが、まるで魔法の言い伝えのように弟へと乗り移っていったかのようだった。

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