泉が湧き出ているところまで来ると、姉は背負い子(しょいこ)に添えてあった木の椀を取り出し、冷たい清水を汲んだ。
「これがお前の新しい門出を祝うお酒だよ」
そう言って一口飲んでから、それを弟に差し出した。
弟はその椀の水をゴクッと飲み干した。
「それじゃあ、姉えさん、ごきげんよう。
絶対に人に見つからないようにして、中山まで行ってくるよ!」
厨子王は残っていた十歩ほどの坂道を一気に駆け下り、沼に沿った街道へと飛び出した。
そして大雲川の岸に沿って、川上の方角へ急いで走っていった。
安寿は泉のほとりに立ち、並木の松の陰に隠れたり現れたりする弟の後ろ姿が、豆粒のように小さくなるまでじっと見送った。
そして、日はもうお昼に近づいているというのに、山に戻って仕事をしようともしない。
幸い今日はこのあたりの山で木を切る人もいないとみえて、坂道にポツンと立って時間を過ごしている安寿をとがめる者は誰もいなかった。
のちに、連れ去られたきょうだいを捜しに出た山椒大夫の一家の追っ手が、この坂の下の沼の端で、小さな藁(わら)の草履(ぞうり)を片方だけ拾い上げた。
それは安寿が履いていたものだった。
――――――――――――
中山の国分寺の立派な三門(さんもん)に、松明(たいまつ)の火の光が激しく揺れ動き、大勢の人々がドヤドヤと押し寄せてきた。
先頭に立っているのは、白い柄の薙刀(なぎなた)を脇に挟んだ、山椒大夫の息子・三郎である。
三郎は本堂の前にドンと立ちふさがると、大声で怒鳴りつけた。
「ここにやって来たのは、石浦の山椒大夫の一族の者たちだ!
大夫が使っている奴隷の一人が、この山に逃げ込んできたのを、確かに目撃した者がいる。
隠れる場所なんてこのお寺の中のほかにないんだからな。
すぐにそいつをここへ引きずり出せ!」
後ろにいた大勢の者たちも、「さあ、出せ! 早く出せ!」と口々に叫んだ。
本堂の前から門の外にかけては、広い石畳がずっと続いている。
その石の上には、今や手に手に松明を持った三郎の手下たちが、我先にと押し寄せている。
また、石畳の両側には、境内に住んでいるお坊さんたちが、ほとんど一人残らずぞろぞろと集まっていた。
これは、追っ手たちが門の外で大騒ぎしたとき、内側から「いったい何が起きたんだ?」と、心配して様子を見に出てきたからだった。
はじめ、追っ手たちが門の外から「門を開けろ!」と大声で叫んだとき、「もし中に入れて、乱暴されたらどうしよう……」と心配して、開けまいとするお坊さんがたくさんいた。
それを、お寺の最高責任者である住持(じゅうじ)の曇猛律師(どんもうりっし)が、「開けなさい」と言って開けさせたのだった。
しかし今、三郎が大声で「逃げた奴隷を出せ!」とわめいているのに、本堂は固く戸を閉ざしたまま、しばらくの間シーンと静まり返っていた。
三郎は怒って足を踏み鳴らし、同じ文句を二度、三度と繰り返した。
手下の一人が、「和尚(おしょう)さん、どうしたんだよ」と冷やかすように声をかけ、それに短い笑い声が混じった。
そして、ようやく本堂の戸が静かに開き始めた。
曇猛律師(どんもうりっし)自身がその戸を開けたのだった。
律師は「偏衫(へんさん=僧侶の上着)」を一枚だけ体にまとい、これといった立派な装いもせず、いつも灯されている常夜灯の薄明るい光を背にして、本堂の階段の上にどっしりと立った。
背が高くガッチリとした体つきと、眉がまだ黒々とした険しい顔立ちが、ゆらゆらと揺れる松明の火に照らし出された。
律師はまだ五十歳を越したばかりの壮年だった。
律師は静かに口を開いた。
あんなに騒がしかった追っ手の連中も、律師のただならぬ姿を見ただけでピタリと静まり返ったので、その声は境内の隅々までハッキリと聞こえた。
「逃げた下人を捜しに来たというのだな。
このお寺では、住持であるわしに断りなしに人を泊めるようなことは絶対にせぬ。
わしが知らないということは、その者はこの寺にはいないということだ。
それはそうとして、夜の暗いさなかに剣や薙刀を手に持ち、大人数でわらわらと押し寄せてきて、三門を開けろと命令した。
てっきりこの国に大がかりな戦争でも起きたのか、あるいは朝廷に背く大罪人でも現れたのかと思うて、三門を開けさせたのだ。
それなのに、なんじゃ。
お前たちの家の下人を捜し出すためだと?
このお寺は天皇の勅願によって建てられた格式高い寺院であり、三門には天皇の筆による扁額がかかり、七重の塔には天皇直筆の金文字の経典が納められているのだ。
そんな神聖な場所で暴れ回ったりしたら、この国を治める国守(こくし)が朝廷から重い処罰を受けることになるのじゃ。
それに、総本山である東大寺に訴えでもしたら、都からどんな厳しいお咎(とが)めが下るか分かったものではない。
そのあたりの事情をよーく考えてみて、さっさと引き取ったほうが身のためだぞ。
悪いようには言わぬ、お前たちのために言っているのだ」
そう言うと、律師はスッと静かに本堂の戸を閉めてしまった。三郎は本堂の戸をキッと睨みつけて、くやしさに歯をくいしばりました。
しかし、思い切って戸をぶち破り、中へ踏み込むだけの勇気はありませんでした。
手下どもは、ただ風に揺れる木の葉のように、ガヤガヤと小声でささやき合っていました。
とその時、大声で叫ぶ者がいました。
「いま逃げたというやつは、十二、三歳の小僧だろう?
それなら、俺が知っているぞ!」
三郎はびっくりして声の方を振り返りました。
なんと、自分の父親である山椒大夫そっくりな老爺で、このお寺の鐘をつく番人でした。
番人は言葉を続けて言いました。
「その小僧ならな、わしが昼ごろに鐘楼から見ておったとき、塀の外を通って南へ急いで行ったぞ。
かよわい見た目のわりに、足がものすごく軽かった。
もうずいぶん先のほうまで行ったはずじゃ」
「それなら話は早い!
半日の間に子どもが歩ける距離なんてたかが知れている。
追うぞ!」
そう言うと、三郎はクルリと向きを変えて引き返していきました。
松明の行列が寺の門を出て、塀の外を南の方へ走っていくのを、鐘楼守は高い鐘楼の上から見て、大声でケラケラと笑いました。
近くの木立の中で、ようやく落ち着いて眠ろうとしていたカラスが、二、三羽またびっくりして飛び立ちました。
あくる日、国分寺からはあちこちへ人が捜索に飛び出しました。
石浦のほうへ行った者たちは、安寿が沼に入って亡くなったという話を聞いて帰ってきました。
南の方へ行った者たちは、三郎が率いた追っ手が田辺まで行って引き返してきたという話を聞いて帰ってきました。
それから二日ほどたって、曇猛(どんもう)律師が田辺の方角に向かって寺を出発しました。
盥(たらい)くらいの大きさがある鉄の托鉢鉢(たくはつばち)を手に持ち、腕ほどもある太い錫杖(しゃくじょう)を突きながら歩いています。
そのあとからは、きれいに頭を剃り上げて三衣(さんえ:お坊さんの着物)を着た厨子王がついて行きます。
二人は真昼の街道を歩き、夜になるとあちこちのお寺に泊まりました。
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