初級翻訳・幸福のうわおいぐつ 第8話

アンデルセン ハンス・クリスチャン

「どうも詩人というものはきみょうななかまだな」と、書記はおもいました。「わたしもああいう人間の心持になってみたいものだ。じぶんで詩人になってみたいものだ。わたしなら、むろん、あの連中のように泣言をならべはしないぞ……ああ、詩人にとってなんてすばらしい春だろう。あんなにも空気は澄み、雲はあくまでうつくしい。わか葉の緑にかおりただよう」そうだ、もう何年ものあいだ、この瞬間のような気持ちをわたしは知らなかった。

これで、もうこの書記は、すっかり詩人になっていたことがわかります。べつに目立つような大きな変化があるわけではありません。いったい詩人とほかの人間とでは、生まれつきからしてまるでちがっていると考えるのは、ばかげたことです。ただの人で「自分は詩人だ」と名のっているたいていの人間よりも、もっと詩人らしい心を持っている人はいくらでもいるのです。

ただまあ、詩人となれば、思ったことや感じたことをよく覚えていて、それをはっきりと言葉に書きあらわす才能がある、そこがちがうところです。でも、ふつうの心から詩人の才能へと移るというのは、やはり大きな変化にちがいありません。それをいま、この書記君は体験しているのです。

「なんとすばらしい匂いだ」と、書記は言いました。「ローネおばさんのすみれの花を思い出させる。そう、あれはわたしが子供だったころのことだ。はてね、長いあいだ思い出しもしなかったのになあ。いいおばさんだった。おばさんは取引所のうしろに住んでいた。いつも木の枝か青いわか枝を大事そうに水にさして、どんな冬の寒いときでも、あたたかい部屋のなかにおいた。ほっこりとすみれが花をひらいているわきで、わたしは凍った窓ガラスに火であつくした銅貨をおしつけて、のぞき穴をこしらえたものだ。あれはおもしろい見物だった。外の掘割(ほりわり)には船が氷にとじられていた。乗組員はみんなどこかへいっていて、カラスが一羽のこって『かあかあ』と鳴いていた。やがて春風がそよそよと吹きそめると、なにかが生き生きとしてきた。にぎやかな歌とさけび声のなかに、氷がこわされる。船にタールがぬられて、帆綱(ほづな)のしたくができると、やがて知らない国へこぎ出していってしまう。でも、わたしはいつまでもここにのこっている。年がら年中、警察の椅子に腰をかけて、ひとが外国行きの旅券を受け取っていくのをながめている。これがわたしの持って生まれた運命なのだ。うん、うん、どうも……」

こう思って、書記はふかいため息をつきましたが、ふと気がついて言いました。
「はて、おかしいぞ。わたしは、いったいどうしたというのだろう。いつもこんなふうに考えたり感じたりしたことはなかったのに。きっと心のなかに春風が吹き込んだのかな。なにかやるせないようで、そのくせいい気持ちだ」

こう思いながら、なにげなくポケットのなかの紙に手をふれました。
「いけない。これがせっかくの考えをほかに向けさせてしまう」
書記はそう言いながら、はじめの一枚にふと目をさらすと、そこにはこう書いてありました。

『ジグブリット夫人、五幕新作悲劇』

「おやおや、これはなんだ。しかもこれはわたしの手書きだぞ。わたしはいつこんな悲劇なんて書いたんだろう。……軽喜歌劇『散歩道の陰謀』一名『懺悔(ざんげ)祈祷日』。はてね、どこでこんなものをもらったろう。だれかいたずらにポケットへ入れたかな。おやおや、ここに手紙があるぞ」

いかにもそれは劇場の支配人から来たものでした。「あなたのお作は上演いたしかねます」と、それもいっこうに礼をつくさない書きぶりで書いてありました。

「ふん、ふん」
こう書記はつぶやきながら、腰掛けに腰をおろしました。なにか心がおどって、生きかえったようで、気分がやさしくなりました。ついすぐそばの花をひとつ手につみました。それはつまらない、ちいさなひなぎくの花でした。植物学者がなんべんもお講義を重ねて、やっと説明することを、この花はほんの一分間で話してくれました。それは自分自身の生い立ちの昔話もしました。お日さまの光がやわらかな花びらをひらかせ、いい匂いを立たせてくださる話もしました。

そのとき、書記は「いのちのたたかい」ということをふと思いました。これもやはりわたしたちの心を動かすものでした。空気と光は花と仲よしでした。それでも光がよけい好きなので、いつも光のほうへ花は顔をむけました。ただ光が消えてしまったとき、花は花びらをまるめて、空気に抱かれながら眠りました。

「わたしを飾ってくれるのは、光ですよ」と、花は言いました。
「でも、空気はおまえに息をさせてくれるだろう」と、詩人の声がささやきました。

すると、すぐそばに、ひとりの男の子がいて、溝川(みぞかわ)のうえを棒でたたいていました。にごった水のしずくが緑の枝のうえにはねあがりました。すると、書記はそのしずくといっしょに高く投げあげられた、何万という目に見えないちいさい生き物のことを思いました。それは、からだの大きさの割合からすると、ちょうどわたしたちが雲の上まで高く投げられたのと同じようなものでしょうか。そんなことを考えながら、書記は自分自身がだんだんと変わっていく様子を、不思議な気持ちで見つめていました。

「どうやら、眠って夢を見ているらしいな。でも、不思議なことだ。こんなにハッキリと夢を見ているのに、その夢の中で『これは夢だ』とちゃんと気づいているのだからな。もし、夢の中で見たことを、明日目が覚めたときも全部覚えていられたら、どんなにいいだろう。なぜかいつもと違って、気分がものすごく浮き立っている。何を見てもクッキリと分かるし、生き生きとした気持ちを感じるんだ。でも、明日になったら、きっとバカげたことだったと思うに違いない。前にもよくあったことだ。夢の中で、とても賢いことや素晴らしいことを言ったり聞いたりするものさ。それはまるで、地の下に住む小人が持っている金貨のようなものだ。手に入れたときは、たくさんあってキラキラ輝いて見えるけれど、明るい場所で見てみると、ただの石ころや枯れ葉に変わってしまうんだから。やれやれ、困ったものだ。」

書記は、なんだかつまらなそうにため息をつくと、枝から枝へと愉快そうに飛び回り、「チイチイ」とさえずっている小鳥を眺めました。

「小鳥はわたしよりずっと気楽でいいな。空を飛ぶなんて、本当にすごい技だ。翼を持って生まれてきたものは幸せだよ。そうだな……もしわたしが人間以外のものになれるとしたら、かわいいヒバリになりたいものだ。」

そう口にした瞬間、書記の服の背中に、両袖がピタリとくっついて、大きな翼になりました。着ていた服は羽根に変わり、履いていた「うわおいぐつ」は鋭い爪に変わりました。書記は、自分がどんどん姿を変えていく様子をまざまざと見つめながら、心の中で笑いました。

「なるほど、これでいよいよ夢を見ていることが確定だな。でも、わたしは今までこんなに思い切った、バカげた夢を見たことはないぞ。」

そう言って、ヒバリになった書記は、緑の枝の間を飛び回って歌いました。しかし、もうその歌に詩の心はありません。詩人としての気持ちは消えてしまったのです。

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