初級翻訳・怒りの虫 第3話

怒りの虫

別れろとおっしゃるのね」
「違うよ。愛情は育てていこう。しかし、その育て方だが……」
彼は口を閉ざし、眉をひそめた。
窮地に追い込まれた気がしたのである。
そして卓上の一点に目を据え、酒を飲みながら考え込んだ。
木山は別のことに思いを走らせる。
近頃、彼は体の違和感を自覚し始めていた。ほとんど毎晩のように寝汗をかく。眠りは浅く、熟睡したという感覚を味わったことがなかった。そのくせ、昼間でも物事を考えているうちに、うとうとと眠ってしまうことがあった。
指先や足先に軽いしびれを感じる。脈拍が、時に速くなり、時に緩くなる。
頭のてっぺんに、しょっちゅう汗をかいた。めまいがして、足元がふらつくことがあった。
顔や手の肉が、ぼってりとむくんでいるように感じることもあれば、反対にげっそりとやせ細ってしぼんでいるように感じることもあった。
お通じもひどく不規則だった。
食欲も安定せず、しかもだんだんと減っていくようだった。
ただ、お酒を飲みたいという欲求だけは、いつも変わらず強かった。
物忘れがひどく、時々、記憶全体がぼんやりと霧に包まれたようになる。
体はいつもだるく、重かった。
集中力もまるで続かなかった。
一体、どうしてしまったんだろう。
肝臓でも悪くしているのかもしれない。
こんな自分の体なんて、もうこりごりだ。
≫
 木山が呼び出しベルを押すのを見て、由美子は心配そうに眉間にしわを寄せた。
「またお酒を飲むのね。
もう、これくらいにしておいたらどうかしら。
体の調子が悪いって、言っていたじゃない」
「なに、大丈夫だよ。
日本酒くらいなら、いくら飲んだって平気さ……」
≪お前が求めているのは、酒、酒、ただ酒だけなのか。
≫
「それなら、本当にこれから私との愛情を育てていってくれるのね」
「ああ、そうさ。
いま言った通りだよ」
「それでも、私が夫の塚本と同じ家で暮らすとなると、やっぱり嫌でしょう」
「そりゃあ、嫌だよ」
「じゃあ、どうすればいいの」
「それは、あなたの決心次第だよ」
「私の決心はもう決まっているわ。
あなたが許してくれるなら、家を出ていく」
「家を出て、どこへ行くつもりなんだ」
「どこでも、あなたが良いと思う場所へ」
「良い場所なんて、そうすぐには見つからないよ」
「しばらくの間なら、宿屋でもホテル住まいでも構わないわ。
それくらいのお金なら持っているもの」
「だけど、その先が問題だろう」
 由美子はキッと鋭い目つきで木山を見つめた。
「木山さん、私の目をじっと見て。
そして、本当のことを言って」
 木山は彼女の目を見つめて言った。
「僕は君を愛しているよ」
「それだけ?」
「それ以上に、何があるっていうんだ」
「あなたが言っているのは、ただの言葉だけよ」
「じゃあ、どうしろっていうんだ」
 彼女は上目遣いに宙を見つめ、心の中で何かを必死に考えているようだった。
それはまるで、激しい嵐が来る前の静けさのようだった。
木山はこたつ布団に顔を伏せた。
≪今、俺が彼女を抱きしめてやれば、彼女の心はすぐに穏やかになるだろう。
だが、それがどうしたというんだ。
俺自身、自分の肉体に嫌気が差しているんじゃないか。
彼女を抱いて寝ているときでさえ、夜中に嫌な汗をかいた。
仮に、アルコールが体内で燃え上がっているせいだとしても、見苦しくて薄汚いじゃないか。
汗の臭いほど、下品なものはない。
彼女だって、汗をかくこともあるし、心臓をドキドキさせる。
なんて無様な姿だ。
いや、俺のほうがもっとひどい。
普段でさえ、震える手で酒杯を持ち、頭のてっぺんから湯気を立てて、動悸を早めている。
なんていやらしい肉体なんだ。
お前のようなものは、もうたくさんだ。
別れようじゃないか。
さよならだ。
お前ときっぱり縁を切ったら、俺はどんなに清々することか。
ざまあみろ。
これでさようならだ。
お前がいくら追いかけてこようと、俺はもう振り返りもしないぞ。
汚らわしいやつめ。
お前だけじゃない、由美子の体だって、八重子の体だって、汚らわしいことに変わりはない。
由美子からはわきがのような臭いがするし、八重子からは白髪染めの臭いがする。
いくら香水を振りまいたって、どうにもならない。
ざまあみろ。
さようならだ。
≫
 由美子は木山の肩をつかんで揺さぶった。
「木山さん、起きて。
そして、はっきりと言ってちょうだい」
 木山は黙って、彼女の顔を見つめていた。
「あなたの本心は、私にじっと塚本のところで我慢しろ、そう言いたいのでしょう」
 木山はまだ黙ったままだった。
「そうしているうちに、自然と私たちも別れることになる。
それをお望みなのね」
 木山は返事をしなかった。
「よく分かったわ。
もうあなたに心配はかけない。
私は私自身で始末をつけるから」
 木山は突然、叫んだ。
「勝手にすればいいだろう!」
 そして立ち上がり、部屋の中をぐるぐると歩き回った。
嵐の前兆は、彼の方にこそあった。
頭がくらくらして、どうしようもなく腹が立った。
「僕の気持ちは、前に言った通りだ。
あなたはいつまでも、同じところをぐるぐる回っているだけじゃないか。
別れようと僕に言わせたいんだろう。
それならそれでいい。
好きにすればいい!」
 ぐるぐると歩き回ったあと、こたつに半分体を突っ込んで仰向けに寝そべった。
≪俺は何を言っているんだ。
肉体と決別して、なにか精神的な愛情を求めて、苦しくてあっぷあっぷしているんじゃないか。
それなのに、どうしてそれを言葉にできないんだ。
なぜ、素直に彼女に言えないんだ。
≫
 由美子の手が伸びてきて、彼は無理やり引き起こされた。「別れるなら、はっきりそうしましょう。ふてくされた態度をとられるのは、私は嫌いですわ」

「僕だって嫌だよ」

「それなら、どうするつもりなの?」

「理屈をこねるのも嫌なんだ。同じ話を繰り返すのも嫌だし、君と別れるのも嫌だ。何もかもが嫌でたまらない。僕は自分自身の存在すら嫌になっているんだ。これ以上、僕を怒らせないでくれ」

 その場はもう、めちゃくちゃだった。ただ、酒を飲むより他にどうしようもなかった。

「それじゃあ、今まで通りでいいのね」

 話は少しも進展せず、また同じようなやり取りが繰り返された。そんな中、木山は突然こう言った。

「僕は決心したよ。塚本さんに会ってみるつもりだ」

 由美子は顔色を変えた。

「あなたが、まあ、そんなことをするなんて……」

「会ったっていいじゃないか。僕たちの関係なんて、どうせ塚本さんにもバレているはずだ。会った上で、きっぱりと話をつけよう」

「いけません。私は嫌です。第一、あなたの奥様をどうするつもりなの?」

「誤解しないでくれ。家内とは関係のないことだ。ただ、塚本さんに会って、僕たちの立場をはっきりさせておきたいだけなんだ」

≪また何を言っているんだ。腹立ちまぎれに出た、でたらめな思いつきに過ぎないじゃないか。本当に実行する意志があるのか? もし彼女から「会ってきて」と言われたら、お前はきっときっぱり断るはずだ。でたらめを言うな。馬鹿なことを言い出して、ますます話をややこしくするだけじゃないか。

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