お前はいったいどうしたいんだ。≫
由美子は黙り込んでしまった。それからふいに、彼にキスを求めた。
「分かったわ、あなたのお気持ち。私は安心して時期を待つことにするわ」
「時期、だって……?」
「その時が来るまで、静かに待っているわ」
「ああ、分かった。僕に任せておいてくれ」
そしてまた、約束のしるしのような冷たいキスをした。それだけで、酒を飲むだけで、心温まるような情愛は湧いてこなかった。
≪俺はまったくどうかしている。なぜ彼女を優しくいたわってやれないのか。自分自身のことだって、いたわってやれない。これは絶対に肝臓のせいだ。肝臓のどこかが悪いに決まっている。肝臓が悪い肉体なんて、ちきしょう、もう捨ててしまえ。≫
木山は不快な気分に沈んでいった。女中が風呂の準備について聞きに来たが、彼は一言で断った。由美子も言葉少なになり、ひどく打ち沈んでいた。
「今日はもう、帰ることにしましょうか。ちょっと用事もあるから」
「そうだな。僕も、もう少し飲んでから……そうだ、どこかへ出かけることにしよう」
あやふやな話のまま、自動車を呼んで由美子は先に帰っていった。
「二、三日のうちに、またお会いできますかしら」
「ああ、いつでも。明日でもいいよ。電話をくれ」
「今度は、のんびりとお会いしましょうね」
彼女の最後の言葉を、木山はこたつにもぐり込みながら頭の中で繰り返した。
≪のんびりと、ゆったりと、楽しく……初めのうちはそうだったのに、どうして今日のようなことになってしまったのか。彼女の態度も悪いが、原因は俺にもあるらしい。肝臓だ。肝臓が悪いんだ。≫
彼はどこかへ立ち寄ろうかと考えたが、疲労を感じたし、酔いも回っていたのでやめてしまった。その代わり、芸者を二人呼んで酒を飲み続けた。意識が途切れ、時間も止まり、何をどうしたのかも判然とせず、いつ自宅に帰ったのかすら分からず、翌朝遅くに目を覚まして、ようやく人心地がついた。
木山は朝から酒を飲んだ。夜明けごろふと目を覚ましたとき、ぐっしょりと寝汗をかいていてひどく不快だった。起き上がって顔を洗う際、洗面所に歯磨き粉が散らかっていたので、女中をひどく叱りつけた。しかし、叱りつけたことでかえって自分の気分を悪くしてしまった。酒を飲みながら、頭のてっぺんから汗がにじんできて、気持ちは少しも晴れなかった。
そこへ、妻の八重子がくだらない話を持ち出してきた。八重子はもともと体が弱く、消化不良に悩んでいた。医者にかかるほどではないので市販薬で済ませていたが、近頃は按摩(あんま)を毎日のように呼んでいた。いつも決まった按摩師で、目も見えて、わりと小綺麗な中年の女性だった。しかしその按摩師が昨日は都合が悪く、代わりに年老いた按摩師がやってきた。妻が話しているのは、その老婆の話だった。
「奥様は、なるほど胃がお悪いですね」と、老婆は細かく首をかしげながら、胃病の症状をいくつか挙げた。その中で、一つ奇妙な話があった。もう六十歳を過ぎた老婦人で、長年胃病に悩み、あちこちの医者にかかったがどうしても治らなかったという。ところが近頃、おかしな症状が起きたのだ。物を食べると、胃袋の中のどこかに、食べ物がつかえてしまうのである。汁物でさえも、つかえてしまうというのだ。そしてしばらくすると、そのつかえていたものが、胃袋の底へ、ごっとん、ごっとんと落ちていく。
そうして初めて、胸のつかえが取れるような心地がするのだ。
固いものだけでなく、汁物でさえそうなるのだからおかしなものだ。
胃のどこにつかえているのかは分からないが、確かに何かがつかえて、それがやがて、ごっとん、ごっとんと下がっていくのである。
医者に診せても原因は分からず、このごろではもう諦めて、その「ごっとん、ごっとん」という音を、かえって楽しみに待つようになっていた。
その話を按摩師はただの座興として話したようだったが、自分自身も胃の弱さに悩んでいる八重子には、妙に気味悪く響いた。
「嫌だわ、胃の中でごっとんごっとん音がするなんて。胃袋がひょうたんみたいにくびれてしまったのかしら」
八重子は眉間にしわを寄せていた。
木山は頭を拭きながら言った。
「馬鹿な。神経のせいだろう」
「神経のせいだとしても、そんなふうになったらどうしましょう。私、ぞっとしますわ」
「だから、医者に診てもらいなさいといつも言っているじゃないか」
「あなたがお医者様に診てくださるなら、私もそうしますわ。あなたの方こそ、きっとどこか悪いんですよ。寝汗をかいたり、頭から汗をかいたりなさるなんて……」
木山は嫌な顔をして黙り込んだ。何度も繰り返されたやり取りだったからだ。
木山が医者にかかるなら自分も行く、さもなければ行かないと八重子は主張した。主張というほど強いものではなかったが、繰り返されるとどこか頑固な響きがあった。そしてそのたびに、寝汗だの頭の汗だのが引き合いに出されるのである。
「本当に、お医者様にお見せになって……」
木山は腹が立ってきた。
「それより、胃袋の中の『ごっとんごっとん』の方が先だろう。僕も、動悸がどっきんどっきんしたら医者に診てもらうよ」
言ってしまってから、木山はますます不快になった。実際、自分の脈も早くなっていたからだ。白髪染めをしている八重子の髪の臭いが、気のせいか鼻についてきた。
彼はいい加減に酒を切り上げ、外出の支度を始めた。そこへ事務所から、というより地方新聞の出張所から電話がかかってきた。
その地方の神社に、見事な松並木があるのだが、そのうちの二本ほどが昨年から枯れかけていた。県の技師の調査によると松食い虫の害らしく、伐採の案が出たものの、古老たちの反対でしばらく様子を見ることになっていた。ところが、どうも生き返る見込みがなさそうなので、暑くならないうちに切り倒して害虫の蔓延を防ごうとしたところ、有力者から反対が起きたのだ。なにしろ一種の神木に関わることなので慎重を期す必要があり、もう一度専門の博士に鑑定を仰ぎたい。ついては、木山宇平が今度あちらへ行く際に、その博士を同道してくれないか、という頼みだった。木山は忘れていたが、明後日には出張する予定だったのである。
木山は話を聞いていて、かっとなった。事務員を怒鳴りつけた。
「予定はあくまで予定だ。僕があちらへ行こうが行くまいと、それは僕の勝手じゃないか。僕の方だって都合があるんだ」
彼は由美子のことを思い出していた。
「松の木のことなんか、今すぐどうこうしなきゃいけない問題じゃあるまい」
くどくどと、弁解の言葉が受話器から伝わってきた。
「だいたい、馬鹿げた話だ。何が神木かね。まだそんな迷信が残っているのか。さっさと切り倒せばいいじゃないか」
またくどくどと、弁解の言葉が続いた。
「そんなこと、取り合うのが馬鹿らしい。電報を打つんだ。『松食い虫に相違ないから切り倒せ』と、電報にするんだ」
なおもくどくどと、弁解の言葉が続く。
「そんな下らない用件は打ち切ってしまえ。僕は今日は行かないからね」
二十分ほど怒り散らして、木山は電話を切った。
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