それから、少し離れたところで待っていた小林少年に近づいて、何か小声でささやいてから、「小林君、ちょっとこの方とホテルへ寄ることにしたからね。きみは荷物をタクシーに乗せて、一足先に帰ってくれたまえ」と命じました。
「ええ、ではぼく、先へまいります」
小林君が赤帽の後を追って駆け出していくのを見送ると、名探偵と辻野氏は肩を並べ、いかにも親しげに話し合いながら、地下道を抜けて東京駅の二階にある鉄道ホテルへと上がっていきました。
あらかじめ命じてあったのか、ホテルの最上等の一室には客を迎える準備が整っており、恰幅のよいボーイ長がうやうやしく控えています。ふたりが立派な織物で覆われた丸テーブルを挟んで安楽椅子に腰を下ろすと、待ち構えていたかのように別のボーイが茶菓子を運んできました。
「きみ、少し密談があるから席を外してくれたまえ。ベルを押すまで、だれも入ってこないように」
辻野氏が命じると、ボーイ長は一礼して立ち去りました。締め切った部屋の中に、ふたりきりの差し向かいです。
「明智さん、ぼくはどんなにかきみに会いたかったことでしょう。一日千秋の思いで待ちかねていたのですよ」
辻野氏は、いかにも懐かしげに微笑みながら、しかし目だけは鋭く相手を見つめて、そんなふうに話し始めました。明智は安楽椅子のクッションに深く身を沈め、辻野氏に劣らぬにこやかな顔で答えました。
「ぼくこそ、きみに会いたくてしかたがなかったのですよ。汽車の中で、ちょうどこんなことを考えていたところでした。ひょっとしたら、きみが駅へ迎えに来ていてくれるんじゃないかとね」
「さすがですねえ。すると、きみは、ぼくの本当の名前もご存じでしょうねえ」
辻野氏の何気ない言葉には、恐ろしい力がこもっていました。興奮のあまり、椅子のひじ掛けに乗せた左手の先がかすかに震えています。
「少なくとも、外務省の辻野氏でないことは、あの、まことしやかな名刺を見たときからわかっていましたよ。本名と言われるとぼくも少し困るのですが、新聞などでは、きみのことを怪人二十面相と呼んでいるようですね」
明智は平然として、この驚くべき言葉を語りました。ああ、読者諸君、これがいったい本当のことでしょうか。盗賊が探偵を出迎えるなんて。探偵のほうでも、とっくにそれと知りながら賊の誘いに乗り、賊の出すお茶をいただくなんて、そんなばかばかしいことが起こり得るものでしょうか。
「明智君、きみはぼくが想像していたとおりの方でしたよ。最初ぼくを見たときから気づいていて、気づいていながらぼくの招待に応じるなんて、シャーロック=ホームズにだってできない芸当です。ぼくは実に愉快ですよ。なんて生きがいのある人生でしょう。ああ、この興奮の一時のために、ぼくは生きていてよかったと思うくらいですよ」
辻野氏に化けた二十面相は、まるで明智探偵を崇拝しているかのように言うのでした。しかし、油断はできません。彼は国中を敵に回している大盗賊です。ほとんど死に物狂いの冒険を企てているのです。そこには、それだけの用意がなくてはなりません。ごらんなさい。辻野氏の右手は、洋服のポケットに入れられたまま、一度もそこから出ようとはしません。
いったい、そのポケットの中で何を握りしめているのでしょう。
「ハハハ……、きみは少し興奮しすぎているようですね。ぼくにとっては、こんな状況も少しも珍しいことではありませんよ。だが、二十面相君、きみには少しお気の毒ですね。ぼくが帰ってきたせいで、せっかくのきみの大計画も無駄になってしまったのだから。ぼくが帰ってきたからには、博物館の美術品には指一本触れさせませんよ。また、伊豆の日下部家の宝物も、きみの所有品にはさせない。いいですか、これだけははっきり約束しておきます」
そんなふうに言うものの、明智もなかなか楽しそうでした。深く吸い込んだタバコの煙を、フーッと相手の面前に吹きかけて、にこにこと笑っています。
「それじゃあ、ぼくも約束しましょう」
二十面相も負けてはいませんでした。
「博物館の所蔵品は、予告の日には必ず奪い取ってお目にかける。それから、日下部家の宝物……ハハハ……あれが返せるものですか。なぜって明智君、あの事件では、きみも共犯者だったじゃないか」
「共犯者? ああ、なるほどねえ。きみはなかなか洒落がうまいね。ハハハ……」
互いに相手を滅ぼさないではいられない激しい敵意を燃やす二人。大盗賊と名探偵は、まるで親しい友人のように談笑しています。しかし、二人とも心の中では、寸分の油断もなく張り詰めているのです。これほどの大胆な仕業をする賊ですから、その裏にどんな罠が用意されているか分かりません。恐ろしいのは賊のポケットに隠されたピストルだけではないのです。先ほどの怪しげなボーイ長も、賊の手下でないとは限りません。そのほかにも、このホテルの中にはどれほど賊の手下が紛れ込んでいるか、知れたものではないのです。
今の二人の立場は、剣道の達人同士が、白刃を構えて睨み合っているのと少しも変わりません。気力と気力の戦いなのです。わずか産毛ほどの油断が、たちどころに勝負を決めてしまうでしょう。二人はますます愛想よく話し続けています。顔はにこやかに笑い崩れていますが、二十面相の額には、この寒いのに汗の玉が浮いていました。二人とも、その目だけは、まるで火のようにらんらんと燃え輝いていました。
(トランクとエレベーター)
名探偵は、プラットホームで賊を捕らえようと思えば、なんのわけもありませんでした。どうしてこの好機を見逃してしまったのでしょう。読者諸君は、くやしく思っているかもしれませんね。しかし、これは名探偵の自信がどれほど強いかを物語るものです。賊を見くびっていればこそ、こういう離れ業ができるのです。
探偵は、博物館の宝物には賊に指一本触れさせない自信がありました。例の美術城の宝物も、そのほかの数え切れない盗難品も、すっかり取り返す信念がありました。それには、今この場で賊を捕らえてしまっては、かえって不利なのです。二十面相には多くの手下がいます。もし首領が捕らえられたならば、その部下たちが盗み溜めた宝物をどう処分してしまうか、分かったものではないからです。逮捕は、その大切な宝物の隠し場所を確かめてからでも遅くはありません。そこで、せっかく出迎えてくれた賊を失望させるよりは、いっそその誘いに乗ったと見せかけ、二十面相の知恵の程度を試してみるのも一興であろうと考えたのでした。
「明智君、今のぼくの立場というものを、ひとつ想像してみたまえ。きみはぼくを捕らえようと思えば、いつだってできるのだぜ。ほら、そこのベルを押せばいいのだ。そしてボーイにお巡りさんを呼んでこいと命じさえすればいい。ハハハ……、なんて素晴らしい冒険だ。この気持ち、きみに分かりますか。命がけですよ。ぼくは今、何十メートルとも知れぬ絶壁の突端に立っているのですよ」
二十面相はあくまで不敵です。そう言いながら目を細めて探偵の顔を見つめ、さもおかしそうに大声で笑い出すのでした。
「ハハハ……」
明智小五郎も、負けじと大笑いをしました。
「きみ、なにもそうビクビクすることはない。
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