初級翻訳・一寸法師 第30話

一寸法師

命がけの軽業が始まりました。
白衣の怪物が空に浮きました。
針金を握って足を離すと、ハッと思う間にツルツルと五、六間(約10〜12メートル)滑りました。
針金がピュウンとうなり、煙突が弓のようにしなりました。
針金が手のひらに食い込み、鑢(やすり)のように骨をこすりました。
畸形児は半分も滑らないうちに、痛さに耐えられなくなりました。
もう針金を握る力が残っていなかったのです。
ふと下を見ると、そこの空き地にはいつの間にか五、六人の人が空を見上げて騒いでいました。
たとえ向こうまで滑り着いたとしても、もう逃亡の見込みはありません。
「駄目だ」と思うと指が伸びました。
一瞬間、畸形児の目の前で世界が独楽(こま)のように回りました。
墜落した一寸法師は、そのまま気を失いました。
空き地にいた人たちが声を上げて、その周りに駆け寄りました。

誤解

 小林紋三は明智の指図に従い、表の方の窓を開けて大声で怒鳴りました。
そしてそこに見張りをしていた刑事が駆け出すのを見送ると、一瞬間、ぼんやりと突っ立っていました。
明智の後を追って屋根に登るべきか、ここに留まって山野夫人の介抱をするべきかと迷ったのです。
夫人は彼の足元にうつ伏して、死んだように身動きもしません。
よく見れば細かく肩を震わせて泣き入っていました。
襟が乱れて乳色の首筋が背中の方まで剥き出しになり、その上を夥しいおくれ毛が這い回っています。
屋根の上の騒ぎも段々と遠ざかり、階下の老婆はどうしたのか姿を見せず、そのさなかに異様な静寂が訪れました。
世界から切り離されたような感覚でした。
「奥さん」
 紋三は夫人の肩に手をかけて、低い声で呼びました。
すると突然、夫人が起き上がって叫び出しました。
「私です。三千子を殺したのは私です。お巡りさんにそう言ってください。小林さん、お巡りさんのところへ連れて行ってください」
 青ざめた顔が涙に濡れて、唇が醜く痙攣しました。
「いいえ、その前に、家へ連れて行ってください。私は家へ帰らなければならないんです。さあ、早く早く、小林さん」
 彼女は紋三の腕にすがるようにしてわめきました。
充血した目が、人が来るのを恐れてキョトキョトとあたりを見回しました。
紋三も興奮のために青ざめていました。
不思議な戦慄が背中を走りました。
なめてもなめても唇が乾きます。
「奥さん、逃げましょう」
 彼の声はかすれ、震えていました。
「早く、家へ連れて行って」
「僕と、僕と一緒に、逃げましょう」
 百合枝は激情のあまり立ち上がる力もありませんでした。
紋三の肩にすがっては、崩れ落ちました。
彼は夫人の狭い胸を抱くようにして、やっとのことで階段を降りることができました。
降りたところに、耳の遠い老婆がポカンと立っていました。騒ぎが起きたことに気づいた彼女が、ようやく姿を現しました。
紋三はおばあさんを押し退けて、入り口へと走りました。
そこにちょうどあった下駄を履くと、門の外へ飛び出しました。
見張りをしていた刑事は一寸法師の方へ行ってしまい、誰もいません。
彼らはもう暗くなり始めた町を、人通りの少ない方へと、よろめきながら走っていきました。
幸い、誰も彼らを咎める人はいませんでした。
電車通りも無事に渡り、二人はいつの間にか隅田川の堤防に出ていました。
そこ以外に逃げる道はなかったのです。
夫人は息切れがして、何度も倒れそうになりました。
紋三の肩に掴まった夫人の手が、きゅっと彼の首を締めました。
冷たい乱れた髪が、彼の耳元をかすめました。
やがて、二人は山野邸への曲がり角までたどり着きました。
「そちらへ行ってはいけません、今家へ帰ったら捕まってしまうだけです。さあ、もっと走るんです」
「いいえ、私はどうしても、一度家へ帰らなければならないんです。離してください、離して」
夫人はか弱い力を振り絞って、邸の方へ曲がろうとしましたが、紋三がしっかりと抱きとめて、そうはさせませんでした。
「心配しないで大丈夫です。僕はどこまでもあなたと一緒に行きます。さあ、ぐずぐずしている時ではありません。逃げましょう。逃げられるところまで逃げましょう」
紋三は夫人を引きずるようにして、上ずった声で言いました。
それでも彼女はしばらくの間、紋三の腕の中で身をもがいていましたが、やがて力尽きました。
紋三は夫人の体が突然しっとりと柔らかく、重くなったのを感じました。
彼女は心も体も疲れ果てて、抵抗する気力も失ってしまったのです。
紋三はほとんど夫人を抱き上げるようにして、堤防を北へ北へと走りました。
進むにつれて人家がまばらになり、夕闇は一層濃く迫ってきました。
どれくらい走ったでしょうか、ふと見ると、堤防の右手に、真っ暗に茂った深い森がありました。
紋三の足は二人分の重さのため、もう言うことを聞かなくなっていました。
息切れがして、胸が張り裂けそうでした。
ちょうどその時、休む場所として、屈強な森が見つかりました。
彼は倒れ込むようにして、その中へ入っていきました。
ほとんど気を失った夫人の体を、大木の陰の草の上に寝かせると、彼は堤防へ引き返しました。
川のところまで這うようにして降りていき、汚い水をすくって飲みました。
そうして少し喉が楽になると、今度はハンカチに水を含ませて、それを持って森の中へ入っていきました。
百合枝は元のままの姿勢で、そこに仰向けに寝ていました。
顔だけがはっきりと浮かび上がり、乱れた様子は薄暗の中に溶け込んで、夢のような美しさを醸し出していました。
紋三は濡れたハンカチを片手に、ぼんやりとその美しい姿を眺めました。
昨日までは、愛するがゆえに、一種の恐れさえ抱いていたこの人と、今、駆け落ちをしているのだと思うと、悲壮なような、甘いような、名状できない気持ちで胸が痛くなりました。
彼はそこに膝をついて、百合枝の首を抱き上げると、彼女の唇へ、濡れたハンカチの代わりに、いきなり自分の唇を寄せました。
そして、彼がまだ小さい子供だった時、隣で眠っていたいとこにしたように、彼女の接吻を盗むのでした。
「あら、私どうしたのでしょう」
やがて、接吻の雨の下から、百合枝の唇が言いました。
彼のあまりの激情が彼女の眠りを覚ましたのか、それとも彼女は全てを知っていて、わざと今気づいたふりをしているのか、紋三は疑わずにはいられませんでした。
それほど百合枝の目覚め方は不自然で、それに目覚めた後も、彼女の首を抱いた紋三の腕を拒もうともしないのが不思議でした。
全く気のせいだけではないと思うと、紋三は目の中が熱くなりました。
「どうです、歩けますか」彼はさっきのハンカチを百合枝の口元に当てがって言いました。「もう少しの我慢です。この辺を右に折れて行けば、曳舟の停車場があるはずです。そこから汽車に乗りましょう。そしてどこか遠いところへ行きましょう」
「いいえ、もうだめですわ。逃げたってだめですわ。あいつがもうすっかり白状してしまったに違いありませんもの」
「何を言っているのです。だから逃げるんじゃありませんか。それともあなたが、とても逃げおおせないと思うのだったら」彼は殉情に目を光らせて、芝居の台詞のような声を出しました。

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