初級翻訳・怪人二十面相 第29話

怪人二十面相

「やっつけろ!」

低いけれど力強い声が響いたかと思うと、乞食に化けた男と赤井寅三の両人が、恐ろしい勢いで車の中に踏み込んできました。そして、赤井が明智の上半身を抱きしめるようにして押さえていると、もうひとりは懐から取り出したひとかたまりの白布のようなものを、手早く探偵の口に押しつけて、しばらくのあいだ力を緩めませんでした。

それから、五分もして男が手を離したときには、さすがの名探偵も薬物の力にはかないません。まるで死人のようにグッタリと気を失ってしまいました。

「ホホホ、もろいものね」

同乗していた洋装婦人が、美しい声で笑いました。

「おい、縄だ。早くなわを出してくれ」

乞食に化けた男は、運転手からひと束の縄を受け取ると、赤井に手伝わせて、明智探偵の手足を、たとえ蘇生しても身動きができないように縛り上げてしまいました。

「さあ、よしと。こうなっちゃ、名探偵もたわいがないね。これでやっとおれたちも、何の気兼ねもなく仕事ができるというもんだ。おい、親分が待っているだろう。急ごうぜ」

ぐるぐる巻きの明智の体を自動車の床に転がして、乞食と赤井とが客席におさまると、車はいきなり走り出しました。行く先はもちろん、二十面相の巣窟です。

賊の手下の美しい婦人と、乞食と、赤井寅三と、気を失った明智小五郎とを乗せた自動車は、寂しい町、また寂しい町と選びながら走りに走って、やがて代々木の明治神宮を通りすぎ、暗い雑木林の中にポツンと建っている一軒の住宅の門前に止まりました。

それは七間か八間ぐらいの中流住宅で、門の柱には「北川十郎」という表札がかかっています。もう家中が寝てしまったのか、窓から明かりもささず、いかにも慎ましやかな家庭らしく見えるのです。

運転手(もちろんこれも賊の部下なのです)が真っ先に車を降りて、門の呼び鈴を押すと、ほどもなくカタンという音がして、門の扉についている小さな覗き窓が開き、そこに二つの大きな目玉が現れました。門灯の明かりで、それがものすごく光って見えます。

「ああ、きみか。どうだ、首尾よくいったか」

目玉の主が、ささやくような小声で尋ねました。

「ウン、うまくいった。早く開けてくれ」

運転手が答えると、はじめて門の扉がギイーと開きました。見ると、門の内側には、黒い洋服を着た賊の部下が、油断なく身構えて立ちはだかっているのです。乞食と赤井寅三が、ぐったりとした明智探偵の体をかかえ、美しい婦人がそれを手助けするようにして門の中へ消えると、扉はまた元の通りにぴたりと閉まりました。
一人残った運転手は、空になった自動車に飛び乗りました。
そして車は、矢のように走り出し、あっという間に見えなくなってしまいました。
どこか別の場所に、賊の車庫があるのでしょう。
門の中では、明智をかかえた三人の部下が玄関の格子戸の前に立つと、いきなり軒先の電灯がパッと点灯しました。
目がくらむほどに明るい電灯です。
この家へ初めて来た赤井寅三は、あまりの明るさにギョッとしましたが、彼を驚かせたのはそれだけではありませんでした。
電灯がついたかと思うと、今度はどこからともなく、大きな人の声が聞こえてきたのです。
誰もいないのに、声だけがお化けのように空中から響いてきたのです。
「ひとり人数が増えたようだな。そいつはいったい、だれだ」
どうも人間の声とは思えないような、変な響きです。
新入りの赤井は薄気味悪そうに、キョロキョロとあたりを見回しています。
すると、乞食に化けた部下がスタスタと玄関の柱のそばへ近づき、その柱のある部分に口を寄せるようにして言いました。
「新しい味方です。明智に深いうらみを持っている男です。十分に信用していいのです」
まるで電話でもかけているようです。
「そうか、それなら入ってもよろしい」
また変な声が響くと、まるで自動装置のように、格子戸が音もなく開きました。
「ハハハ……驚いたかい。今のは奥にいる首領と話をしたんだよ。人目につかないように、この柱の陰に拡声器とマイクロホンが取り付けてあるんだ。首領は用心深い人だからね」
乞食に化けた部下が教えてくれました。
「だけど、おれがここにいるってことが、どうして知れたんだろう」
赤井はまだ不信感が晴れません。
「ウン、それも今にわかるよ」
相手は取り合わず、明智をかかえてグングン家の中へ入っていきます。
自然と赤井も後に従わざるを得ません。
玄関の間には、また一人の屈強な男が肩をいからせて立ちはだかっていましたが、一同を見るとニコニコしてうなずいて見せました。
ふすまを開けて廊下へ出て、一番奥まった部屋へたどり着きましたが、妙なことにそこはガランとした十畳の空き部屋で、首領の姿はどこにも見えません。
乞食が何かあごでしゃくって指図をしますと、美しい女の部下がスタスタと床の間に近づき、床柱の裏に手をかけて何かをしました。
するとどうでしょう。ガタンと重々しい音がしたかと思うと、座敷の真ん中の畳が一枚、スーッと下へ落ちていって、あとに長方形の真っ暗な穴が開いたではありませんか。
「さあ、このはしご段を下りるんだ」
言われて穴の中をのぞくと、いかにも立派な木の階段がついています。
ああ、なんと用心深いことでしょう。表門の関所、玄関の関所、その二つを通り越しても、この畳の「がんどう返し」を知らぬ者には、首領がどこにいるのやら見当もつかないというわけです。
「なにをぼんやりしているんだ。早く下りるんだよ」
明智の体を三人がかりでかかえながら一同が階段を下りきると、頭の上でギーッと音がして、畳の穴は元の通りにふたをされてしまいました。
実に行き届いた機械仕掛けではありませんか。
地下室に下りても、まだそこが首領の部屋ではありません。薄暗い電灯の光を頼りにコンクリートの廊下を少し行くと、頑丈な鉄の扉が行く手をさえぎっているのです。
乞食に化けた男が、その扉を妙な調子で「トントントン、トントン」と叩きました。
すると重い鉄の扉が内部から開かれて、パッと目を射る電灯の光、まばゆいばかりに飾りつけられた立派な洋室、その正面の大きな安楽イスに腰掛けてニコニコ笑っている三十歳ほどの洋服紳士が、二十面相その人でありました。
これが素顔かどうかは分かりませんが、頭の毛をきれいにちぢれさせた、ひげのない好男子です。
「よくやった。よくやった。きみたちの働きは忘れないよ」
首領は、大敵・明智小五郎をとりこにしたことが、もう嬉しくてたまらない様子です。
無理もありません。明智さえこうして閉じ込めておけば、日本中におそろしい相手は一人もいなくなるわけですからね。
かわいそうな明智探偵は、ぐるぐる巻きに縛られたまま、そこの床の上に転がされました。赤井寅三は、ただ床に転がしただけでは気が済まないのか、意識を失っている明智の頭を、足で二度も三度も蹴りつけました。

「ああ、君はよほどその男に恨みがあるんだね。それでこそ僕の味方だ。だが、もうよしたまえ。敵とはいえ、いたわる心は必要だ。それに、この男は日本にたった一人しかいない名探偵なんだからね。

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