上級生の勇敢な少年たちが十人ほど、大風船に向かって駆け寄りました。そしてみんなで綱にすがりついて、風に吹かれる風船をひきとめてしまったのです。
すると先生たちもそこへ駆けつけて、真っ黒な人間を抱き起こそうとしました。
「アッ、これは人間じゃない」
「エッ、人間じゃないって?」
「さわってみたまえ、ゴツゴツしている。こんな硬い人間なんてあるもんか」
ふたりの男の先生は不思議そうに顔を見合わせていましたが、ひとりの先生がいきなり、その黒い人間がかぶっていた覆面をはぎ取りました。
「なあんだ。こりゃあ人形じゃないか。よくショウウィンドウに飾ってあるマネキン人形だよ」
「どうりで、なんだか硬いと思った。やっぱり人間じゃなかったのだね」
先生は安心したように、そうつぶやきました。
それを聞くと、生徒たちも「ワーッ」とそこへ駆け寄りました。そして黒衣の人形を取り囲んで、押すな押すなの大騒ぎです。
それからまもなく、学校の小使いさんの知らせによって、駐在所の警官が駆けつけてきました。警官は怪人四十面相がアドバルーンで逃げたことを、ちゃんと知っていたのです。
調べてみると、たしかに世界劇場のアドバルーンでした。「透・明・怪・人」という大文字が、なによりの証拠です。それなのに、その風船にぶら下がっていたのが四十面相本人ではなく、ただの人形だったとは、いったいどういうことなのでしょう。
警官は首をかしげ、考え込んでしまいました。
読者諸君、この謎の答えがおわかりですか。
あの悪賢い四十面相が、海の真ん中へ落ちるかもしれないようなアドバルーンで逃げるはずがありません。
彼は、いざという時の身代わりとして、前もって人形を用意していたのです。
黒いシャツを着せ、黒い覆面をさせたその人形を、塔の屋上にあるコンクリートの怪獣像のかげに隠しておいたのでした。
そして、その人形をアドバルーンの綱に縛り付け、まるで自分が空へと逃げ去ったかのように見せかけたのです。
警官隊も消防隊も、この思いもよらないごまかしに、まんまとひっかかってしまったというわけです。
しかし、それなら本物の四十面相は、一体どこへ隠れてしまったのでしょうか。
警官隊に包囲されたあの塔の上から逃げる道など、空へ登る以外にはなかったはずではありませんか。
そこが奇術師、怪人四十面相の恐ろしいところです。
彼はみんなの目をアドバルーンに引きつけておいて、その隙に不思議な手品を使ったのです。
大勢の警官隊の目を、見事にくらましてしまったのでした。
警官と乞食少年
お話はもとに戻って、黒衣の人形を縛り付けたアドバルーンが世界劇場の塔から飛び去った、すぐあとのことです。
怪獣が並んでいる塔の屋根から細い黒いひもがスーッと下がり、そのひもを伝って一人の制服警官が劇場の屋上へ降りてきました。
そこは塔の裏側なので、誰にも見られていません。
それに、みんなアドバルーンに気を取られていたので、この不思議な警官に注意を払う者は一人もいませんでした。
警官は今伝い降りた細いひもを手元にたぐり寄せると、それを丸めてポケットに押し込み、屋上の出入り口から劇場の中へ入っていきました。
それから五分ほどたった頃、世界劇場の正面玄関から、さっきの制服警官が大きな風呂敷包みを抱えて出てきました。
風呂敷の中身はなんだか分かりませんが、直径五十センチほどの丸くて薄っぺらいものです。
大きなお盆のような形をしています。
劇場の前の広場には、まだ大勢の人々が群がっていました。
その中には警官の一隊も混じっています。
その警官の一人が、今玄関から出てきた不思議な警官に声をかけました。
「君はどこの署の人ですか。その大きな荷物は何だい?」
すると、不思議な警官はニッコリ笑いながら答えました。
「ぼくは警視庁の者ですよ。中村係長さんの命令で、証拠品を持ち帰るのです」
「妙な形のものですね。それは一体なんですか」
「ぼくにも分かりませんよ。風呂敷に包んだまま渡されたのです。係長さんは何か考えがあるのでしょう……では、失礼します」
不思議な警官はそう言い捨てて、人混みをかき分けながらどこかへ立ち去ってしまいました。
それからまた十分ほどたった後のことです。
中央区のとある寂しい屋敷町を、さっきの不思議な警官がテクテクと歩いていました。
やはり丸くて大きな風呂敷包みを小脇に抱えています。
街灯もまばらな暗い夜道です。
両側には大きな邸宅のコンクリート塀や板塀、こんもりした生け垣などが続いています。
まだ日が暮れたばかりなのに、人通りはまったくありません。
東京の真ん中にこんな寂しい場所があったのかと不思議に思われるほどです。
不思議な警官は、その寂しい暗い町をコツコツと歩きながら、面白くてたまらないといった様子でニヤニヤ笑っていました。
「ウフフフ……うまくいったぞ。我ながら感心するほどだ。さっきのお巡りさん、中村係長に会ったら俺のことを報告するだろうな。係長のおったまげる顔が見えるようだ。係長はこんな荷物を渡した覚えはないんだからな。しかし、四十面相が制服警官に化けて逃げ出したなんて、まさか気がつくまい。四十面相はアドバルーンに乗って空を飛んでいるはずじゃないか。フフフ……アドバルーンに下がっていたのは人形で、本物の四十面相は警官になりすましてこんなところを歩いているなんて、どんな名探偵にだって分かりっこないよ」
不思議な警官は、ブツブツと口の中でそんなことをつぶやいていました。
では、この警官は実は怪人四十面相だったのでしょうか。
そうです。
これこそが、彼の大奇術なのです。みんながアドバルーンに気を取られているすきに、彼は絹糸の縄ばしごを使って塔の屋根から下り、劇場のなかを通り抜けて玄関へと出たのです。
警官の制服は、脱獄の準備をしているあいだに、部下に命じて黒衣の人形といっしょに、塔の上の怪獣像のかげに隠しておいたものでした。
なんという用心深さでしょう。脱獄して俳優に化けたあとで、万が一、正体を見破られたときのことを、あらかじめ、ちゃんと考えていたのです。
そのときはアドバルーンを利用して、さらに警官に化けるという、なにからなにまで一点の隙もない完璧な用意でした。
彼はアドバルーンに人形をくくりつけ、綱を切り離すと、手早くその警官服を身につけて、なにくわぬ顔で群がる群衆と警官隊の前に姿をあらわしたのです。
泥棒が警官に化けるとは、なんという奇抜な思いつきでしょう。
しかし、よく考えてみれば、これがいちばん安全な方法なのです。警視庁と所轄警察署の警官が入り混じっていて、お互いに顔を知らないのですから、そこへ見覚えのない警官が一人現れたところで、誰も疑うものはいません。
それにしても、警官に化けた四十面相が小脇に抱えているあの丸い荷物は、一体なんなのでしょうか。
これは世界劇場のなかから持ち出したものに違いありませんが、あの風呂敷のなかには何が包まれているのでしょう。
おそろしく用心深い四十面相のことですから、これもまた、何か緊急事態のための手品の種かもしれません。
不思議な警官は、まだニヤニヤと笑いながら、暗い夜道をコツコツと歩きつづけています。
コメント