初級翻訳・透明怪人 第3話

江戸川 乱歩

消えたかと思うと、とつぜん、穴のそとから「ギャッ!」という、ふしぎなさけび声がして、何か物のぶっつかるような、はげしい音がきこえてきました。
それから、しばらく、あたりはシーンと、しずまりかえっていましたが、見ると、そのかべの穴から、ニューッと、ズボンをはいた足が出て、やがて、ひとりの洋服を着た男があらわれました。
少年たちは、ろう人形の怪物が、また洋服を着て、もどってきたのかと、ギョッとしましたが、それは怪物ではなくて、さいぜんの第三の尾行者、あの新聞記者ふうの紳士でした。
「ウーム、うまく逃げられてしまった。あいつ、なかなかたいした力だぞ……。なあに、もう正体を見とどけたから、だいじょうぶだ。いまにきっと、ひっとらえてくれるから。」
紳士は、そんなひとりごとを、つぶやいていましたが、れんがのかげに身をふせているふたりの少年のほうにむきなおると、
「きみたち、もうだいじょうぶだよ。出てきたまえ。あいつは逃げてしまった。」
と、大きな声で、呼びかけました。
そう言われても、ふたりの少年はあまりのおそろしさに、からだが石のようになり、身うごきはもちろん、声をだすことさえできません。
「ハハハハ……、すっかり、おびえてしまったね。もうあいつは、やってきやしないよ。元気をだして、出てきたまえ。ぼくは化けものじゃない。ふつうの人間だよ。きみたちを、とって食おうとは言わないよ。ハハハ……。」
その快活な笑い声に、二少年はやっと人ごこちがつきました。
そして、やっこらさとおきあがって、からだの土をはらいながら、おずおずと、紳士の前にちかづきました。
「きみたちは、あいつを尾行したんだね。感心だよ。じつはぼくも、きみたちのあとから、あいつを、つけてきたのさ。そして、この穴のそとにまちぶせして、あいつをつかまえてやろうと思ったんだが、あいては目に見えない怪物だからね、とうとう、とり逃がしちゃった。」
そう言って、また、カラカラと笑うのでした。
まるでむかしの化けものたいじの勇士のように、豪胆な紳士です。
「おじさん、あれは、いったい、なんなの?」
木下君が、まっさおになって、まぶたから飛びだしそうな、まんまるな目をして、たずねました。
「おじさんにも、わからないね。化けものだよ。いま東京じゅうをさわがせている、えたいのしれない怪物だよ。」
「えッ、東京じゅうをさわがせているって?」
「きみたちは、まだ知らないだろうね。だが、あいつは、東京のほうぼうにあらわれて、いたずらをしているんだよ。いや、いたずらばかりじゃない。大どろぼうをはたらいているんだよ。」
そう言って、紳士は、くわしい話をはじめました。
それは、どんな話だったでしょう。
まったく目に見えない、空気のような、あの怪物は、どこからやってきたのでしょう。
人間なのでしょうか。
われわれの、いままで少しも知らなかった動物なのでしょうか。
それとも、遠い星の国から、この地球へ飛びこんできた、別世界の生きものなのでしょうか。

紳士はことばをつづけました。
「あの化けもののことを、きみたちはまだ知らないだろうね。ぼくは新聞記者だから、よく知っているんだよ。ぼくは東洋新聞の記者なんだよ。このあいだから、あいつをつけているんだ。しかし、あいつは空気みたいに目に見えないやつだから、いつも、うまくにげられてしまうんだよ。」
「ふしぎだなあ、あいつ、空気みたいに、すきとおっているんだね。それで、やっぱり人間なの?」
「人間なんだよ。しかも、大どろぼうなんだよ。」
新聞記者は、そう言って、ちょっと考えていましたが、ふたりの少年の顔を見くらべて、
「きみたち、この近くなのかい。ウン、そんなら、晩ごはんまでには、まだすこし時間があるだろうから、どこかそのへんで、お茶をのみながら、あいつのことを話してあげよう。きみたちは、あのぶきみなやつを、勇敢に尾行してきたんだからね。この話をきく資格があるよ。」少年たちは、むろんその提案に大賛成しました。そこで三人は原っぱから町のほうへと歩いていき、一件のこぢんまりとした喫茶店に入りました。
新聞記者はコーヒーとケーキを注文し、それを少年たちにすすめながら、次のような話しはじめました。

「ぼくが、あのふしぎな怪物に気づいたのは、いまから十日ほど前のことだ。
銀座を歩いているとね、いきなりドーンと、ぼくのからだに強くぶつかってきたやつがいるんだよ。
ぼくはよろめきながら、『おい、気をつけたまえ!』とどなったんだが、見ると、目の前にはだれもいないんだ。
たしかに人間のからだが、ぼくにぶつかったんだ。
しかし、その人間がどこにもいないんだよ。
すると、ぼくのすぐうしろから歩いていた、ふたり連れの女の人が、『あらッ!』と言って、何か見えないものにつきとばされたように、よろめくのが見えた。
しかし、やっぱり、つきとばした人間の姿は見えないのだよ。
ぼくは『へだなあ……』と思って、立ちどまったまま見ていると、女の人のうしろで、ひとりの若い男がまたよろめいた。
そして、『やい、気をつけろ!』とどなったが、ぶつかってきた人間はだれひとりいないので、ふしぎそうにあたりを見まわしている。
『まあ、気味が悪いわ……。あれ、いったいなんだったのかしら?』
女の人はふたりとも、まっ青な顔になっていた。
『たしかに人間がぶつかったぞ。だが、何も見えなかった。へんだなあ……』
若い男も立ちどまって、キョロキョロとあたりを見まわしている。
そのとき、目に見えない何かに突き当たられた人は、ほかにもたくさんいたんだ。
みんながその場で立ちどまって、『ふしぎだ!』『いったいどうなってるんだ?』と言いあった。
どうしてそんなへんなことがおこったのか、だれにもまったくわからなかった。
しばらくみんなでガヤガヤと言いあったあとで、そのままバラバラに別れてしまったのさ。

ぼくはふと、『透明人間』という小説のことを思いだした。
イギリスのウェルズという作家が書いた、とても有名な小説だよ。
ある学者が、人間のからだがすきとおってしまう薬を発明した。
それを飲むと、からだがまったく見えなくなってしまうというお話だ。
いま、ぼくたちにぶつかったのは、まさにその『透明人間』みたいなやつなんじゃないかと思うと、ぼくはなんだか背すじがゾーッとしたよ。
しかし、『透明人間』なんてあくまで小説の中のお話だ。
そんなつごうのいい薬ができるはずがない。
目に見えない人間なんて、いるはずがないよなぁ。
ぼくは自分のそんな奇妙な考えをうちけして、そのまま家に帰ったんだ。

ところが、ところがだよ。
それから二、三日して、ぼくはまた、じつにふしぎな出来事にぶつかった。
そしてやっぱり、この東京のどこかに『透明人間』がいるんだと、考えずにはいられなくなったのさ。

きみたち、有楽町の高架(ガード)の下に、靴みがきがたくさん並んでいるのをしっているだろう?
あのたくさん並んでいる場所からずっと離れて、ひとりぼっちで店を出している、十三、四歳くらいの少年の靴みがきがいたんだ。
その日の夕方、ぼくは街かどに立って友だちを待ち合わせていた。
そして、見るとなしに、その少年靴みがきのほうを目にとめていたんだよ。

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