初級翻訳・透明怪人 第4話

江戸川 乱歩

するとそこへ、こわい顔をした不良青年みたいなやつがやってきて、靴をみがかせた。
靴みがきのかわいい少年は、いっしょうけんめいにブラシを動かして、青年の靴をピカピカに光らせた。
やがて青年はポケットに手をつっこんで、『細かい持ち合わせがないから、おつりをくれ』と言っているようだった。
少年は手もとにおいてあったボール箱のふたをとって、その中におしこんであるお金をかぞえはじめた。
箱の中には、百円札や十円玉が、びっくりするほどいっぱいにつつまっていたんだ。
青年は横目でそのボール箱を見ていたが、いきなり手をのばすと、それをひったくって、中のお金をわしづかみにして自分のポケットにおしこんだ。
そして、からになったボール箱をポイと地面にほうりだすと、そのまま平然と立ちさろうとした。
少年は泣きそうな顔になって、青年のすそにとりすがっていった。
だが、力の強い不良青年にかなうわけがない。
少年は強くつきとばされてしりもちをつき、おいおいとべそをかいていた。

そのときだよ。
そのとき、じつにふしぎなことがおこったんだ。
あの不良青年が、まるで目に見えない何かにぶつかったように大きくよろめいて、『アッ!』と声をあげた。
そして、顔をまっかにして、ひとり相撲をはじめたんだ。
相手もいないのに、自分ひとりで大格闘をやりだしたんだよ。
ぼくは、この青年はついに気がちがえてしまったのかと思った。
『うぬッ!』『このやろう!』などとうなりながら、ひとりでめちゃくちゃにあばれ回っているんだからね。

まわりの通行人たちが、二人、三人とながめに立ちどまりはじめた。
みんなびっくりして、そのようすをじっと見つめている。
だれも、あばれる青年をとりしずめようとする者はいなかった。
だが、大きな人だかりができるより早く、そのひとり相撲の勝負はついてしまった。
不良青年は、まるで目に見えない強敵にいやというほど地面に投げつけられて、そのままノックアウトされてしまったんだよ」だれに、投げつけられたかって? 目に見えないあいてにだよ。
空気のようなやつにだよ。
わかったかい。
不良青年は透明人間と格闘していたんだ。
青年がのびてしまうとね、ズボンのポケットのへんが、モヤモヤと動いたかと思うと、そこにおしこんであった、お金のかたまりが、ひとりで、とびだして、スーッと宙を浮いていった。
そして、少年クツみがきのボール箱の中へ、もとのとおりに、はいってしまった。
それから、その箱がまた、ひとりで動きだして、しりもちをついている少年のひざの上に、チョコンとのせられた。
ぼくはそのとき、たしかに見た。
ボーッともやのように、人間のかたちをしたものが、動いているのを見た。
そのもやのようなやつが、青年のポケットから、お金をとりもどして、少年のボール箱の中へいれてやったのだ。
青年を投げたおしたのも、むろん、そのもやのようなやつだ。
空気男――ぼくはこの透明人間を空気男と呼んでいるんだがね、その空気男は、大どろぼうだけれド、いっぽうでは、こういういいこともするんだね。
ふざけているんだよ。
そして、世間の人をアッと言わせて、よろこんでいるんだね。

百万円の首飾り

こういうふしぎな事件が、あちらこちらでおこった。
目に見えないやつが、いたずらをするという、うわさが、だんだん高くなってきた。
警察の耳にもはいった。
新聞社へも、さかんに投書がくる。
しかし、警察でも新聞社でも、あいての正体がわからない。
まるで夢のような話なので、どうにも手のつけようがないんだね。
ところが、ゆうべ、とうとう、空気男がどろぼうをはたらいた。
百万円の首飾りをぬすんだんだよ。
銀座の大宝堂を知ってるだろう。
有名な宝石店だ。
ゆうべ、お客さまがみな帰ってしまって、もう店の戸をしめようとしていたときだ。
店のおくにすえてある、りっぱなガラスばりの飾りだなの戸が、ひとりでに、スーッとひらいて、その中にかざってあった、あの店じゅうで、いちばん高価な宝石の首飾りが、何かにつかみだされたように、ガラスのそとへ出てきた。
そして空中をフワフワと、ただよいはじめたのだ。
支配人はおくへはいっていた。
ふたりの店員は戸じまりをするために、そとへ出ていた。
店には若い店員がひとりしかいなかった。
その店員は、首飾りが空中をただよいだしたとき、やっとそれに気がついた。
そして、アッと言って、たちすくんだまま、しばらくは、身うごきもできなかった。
店員は、さいしょ、その首飾りが、目に見えぬほそい糸で、天井からつりさげられているのかと思った。
しかし、シックイでかためて、白くぬった天井には、糸をさげて、あちこちと動かすような、すきまなんか、あるはずがない。
首飾りにたましいがはいって、ひとりで、動きだしたかと思うと、ゾーッと、こわくなってきた。
しかし、勇気をだして、そのほうに近よって、手をのばすと、首飾りは、まるでしつこい魚のように、スーッ、スーッと逃げてしまう。
やがて、首飾りは空中に浮いたまま、少しずつ入り口のほうに近づき、アッというまに、店のそとへ出ていってしまった。
店員は大声をあげて、おっかけた。
店のそとにいた店員も、いっしょになって、さわぎたてた。
支配人もおくからとびだしてきた。
通りがかりの人も、あつまってきた。
しかし、首飾りはもうどこにもなかった。
百万円の宝石が、ひとりで店を出ていってしまったのだ。
すぐ、このことが警察に知らされた。
係官が現場に行ってみたが、まるで夢のような話で、つかみどころがなかった。
このあいだから世間をさわがせている、空気男のしわざではないかと考えたが、手がかりというものが少しもないのだから、どうすることもできない。
この事件が新聞記者の耳にはいったのは、けさだった。
だから、朝刊にはまにあわなかったが、夕刊にはデカデカとその記事が出ているよ。
うちへ帰ったら見てごらん。
「前代未聞の怪事件、空気男銀座にあらわる」というのだ。
東洋新聞では、ぼくがこの事件をうけもつことになった。
夕刊の記事を書いたのもぼくだ。
ぼくはどうかして、空気男の正体をつきとめてやろうと、けさから、めちゃくちゃに、あるきまわっていたんだよ。
そして運よく、あのろう仮面のやつを見つけた。
あれが空気男だとは思わなかった。
しかし、ろう人形が町をあるいているんだから、新聞記者として、これを見のがすわけにはいかない。
ぼくはきみたちよりもまえから、あいつを尾行していた。
ところが、あいつは骨董屋のショーウィンドーをのぞきこんだ。
まんなかにある仏像をにらみつけたまま、動かない、ぼくはそのときはじめて、こいつはおかしいぞと思った。
ひょっとしたら、あのろう仮面の中は、からっぽじゃないかしら。
ふっとそんな気がした。もし、これが空気男だとすると、あの仏像があぶない。
あとから、洋服をぬいで、透明人間となって、あれをぬすみにくるかもしれない。
そう思ったので、ぼくは、きみたちがあるきだしてから、骨董屋にはいって、主人に、あの小さな金属の仏像を、どこかへ、かくしてしまうように、注意しておいた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました