さあ、ためしにのぞいてごらん。
この穴に入るか入らないか」
一太郎君はいわれるままに、紙筒を受取って、その広い方の口を目にあて、望遠鏡をのぞくようにして、先の方の小さい穴を月に向けました。
すると、これはどうでしょう。ふしぎなことには、あのお盆のような大きな赤い月が、米つぶほどの、その小さな穴に、すっかりはいりきってしまったではありませんか。
「やあ、へんですねえ。
この間の小さい月と、ちっともちがわないですよ。
ただ色が赤いだけで、大きさは、すっかり同じですよ。
ふしぎだなあ。
どうして、これでのぞくと、あの大きな月が、一ぺんに小さくなってしまうのでしょう」
ただ一枚の画用紙をまいた紙筒が、いよいよ魔法眼鏡のように思われてくるのでした。
「それがほんとうなのさ。
出はじめの月も、高くのぼった月も、大きさはちっともちがわないのだ。
目にうつっている大きさも、同じことなんだ。
ただ、出はじめの月の方が、ひどく大きいような気がするだけなんだよ。
その証拠にはね、出はじめの月と、高くのぼった月を、写真にとってくらべてみると、少しも大きさがちがわないのだよ。
写真は正直だからね」
「ほんとうですか。
だって、あんなに大きく見えるじゃありませんか。
ちょうどお茶碗とお盆ぐらいも、ちがうじゃありませんか」
一太郎君には、目にうつっている大きさが同じだなんて、どうにも信じられないのでした。
「大人が子供にとりかこまれていると、大人はたいへん大きく見えるだろう。
ところが、その同じ大人の人を、相撲の横綱とならべて立たせて見ると、今度はひどく小さく見えるね。
月もそうなんだよ。
広々とした空の真中にいる時には、まわりがあんまり広いものだから、月は小さく見える。
ところが、出はじめの時は、建物の屋根だとか、森だとか、いろいろなものが近くにあるので、なんにもない空にある時よりも、大きく感じられるのだよ。
目にうつっている大きさは、少しもちがわないのだ。
だが、それだけじゃない。
それよりも、もっと大きなわけがあるのだよ。
それは口でいうよりも、実験してみると、一番よくわかる。
さあ、こちらへ来てごらん。
ちゃんと用意がしてあるんだよ」
高橋さんは、そういって、縁側から立ち上ると、一太郎君をつれて、庭の奥の方へ歩いて行きました。
木立の間を通りすぎると、そのむこうに、野菜の作ってある、ひろい空地があります。
月は出ていても、まだ夕方ですから、小さなものまで、よく見えるのです。
「おや、ゴム風船ですね。
めずらしいなあ。
今こんなもの、どこにも売っていないのですよ」
「僕の友だちで、前にこういうものの製造をしていた人があってね、そこの棚のすみに残っていたのを、手に入れてきたのさ」
「あれ、あんな高い所にもありますね」
「うん、二つなくては実験ができないのだよ。
両方とも水素ガスを入れて、一ぱいにふくらませてあるんだ」
真赤なゴム風船が二つ。
一つは畠のむこうのすみの、地面から一メートルほどの高さに、一つはこちらの空高く、フワリと浮いています。
両方とも糸でしばって、石のおもりがつけてあるのです。
「ずいぶん高いですね。
どうして、あんなに高く上げてあるのですか」
「実験をするためだよ。
さあ、君はここにじっと立っているのだよ。
そしてね、あの畠のむこうにある風船と、頭の上にあがっている風船とを見くらべるのだ。
むこうの風船は、ちょうど君の目の高さぐらいのところに浮いているね。
こちらの風船は君の頭の真上にある。
さあ、見くらべてごらん。
まず頭をまっすぐにして、むこうの風船を見、それから、上を向いて空の風船を見るのだ。
よしよし、それでいい。
どちらが大きく見えたね」
一太郎君は、幾度も上を向いたり、前を見たりしたあとで、答えました。
「むこうの風船の方が、ずっと大きく見えます」
「そうだろう。
さて、今度は空に上っている風船の糸をたぐって、だんだん引きおろすからね。
君はたえず、両方の風船を見くらべていて、ちょうど同じぐらいの大きさに見えた時に、『よし』といって合図をするんだよ。
さあいいかい、はじめるよ」
高橋さんは一太郎君のうしろに立って、そろそろと風船の糸をたぐりはじめました。
「まだ同じ大きさにならない?」
「うん、もう少し」
「まだかい?」
「よし、そこでいい。
ちょうど同じぐらいに見えます」
それを聞くと、高橋さんは、糸をたぐる手をとめて、糸の、一太郎君の目のへんにあたる所を、別の赤い糸でしばって、目じるしをつけました。
「さあ、今度は、君の指でこの赤い糸のところをしっかりつまんで、目のそばにくっつけて、そのままじっと動かないでいるんだ。
いいかい」
高橋さんはそう命じておいて、高く上っている風船をグングンたぐりながら、畠のむこうの風船の方へ歩いて行きました。
やがて、空に上っていた風船が高橋さんの手元にたぐりよせられ、一太郎君のつまんでいる糸が、ピンと一直線にはりきった所で、高橋さんは立ちどまりました。そこは畑の真中で、向こうの風船との間は、まだ何メートルも離れているのでした。
「さあ、こうして横に引っ張って、同じ高さにすると、今度はどちらが大きく見えるかい?」
高橋さんが大きな声で尋ねました。
「あっ、変ですねえ!
高橋さんの持っている風船の方が、ずっと大きく見えますよ」
一太郎君は、またまたびっくりしてしまいました。
「いいかい、この風船が空に上がっていた時も、こうして横に引っ張った時も、糸の長さは同じなんだから、君の目と風船の距離も同じわけだね。
ところが、その同じ距離にあるものが、頭の上にあった時には、向こうの風船と同じ大きさに見え、引き下ろして横に引っ張って見ると、今度は向こうの風船よりもずっと大きく見える。
そうだろう?」
「ええ、その通りです。
ふしぎだなあ……」
一太郎君には、どうにもまだよく納得がいかない様子です。
「それじゃあ今度は、赤い目印のところを離して、下のおもりの石から、君の目の高さくらいのところをつまんでごらん」
一太郎君が言われた通りにすると、そのぶん糸がたるんだので、高橋さんはそれをピンと張らせるために一歩あとずさりし、ついに畑の向こうの風船のそばまで行ってしまいました。
そして、糸がピーンと張ったとき、二つの風船はぴったりと寄り添うように並びました。
つまり、糸の長さは、ちょうど一太郎君の立っている場所から、畑の向こうの風船までの距離と、まったく同じだったのです。
「わかったかい?
空に上げてあった風船の糸は、君のいる所から、こちらの風船までの長さと、ちょうど同じにしてあったんだよ。
だから、これが空に上がっていた時の、君の目からの距離は、下の風船と同じだったんだ。
同じ遠さのところにあったのさ。
ところが、さっき君が見た時には、空に上がっている方が、ずっと小さく見えたんだね。
それで、同じ大きさになるまで、下へ手繰り寄せたんだ。
さあ、この二つを見比べてごらん。
今はどちらが大きいかい?」
「同じです。
ちっとも違いません!」
「ハハハ、わかったかい?」
高橋さんは笑いながら、一太郎君のそばへと戻ってきました。
初級翻訳・智恵の一太郎 第16話
智恵の一太郎
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