ふたりの警官は、相手にさとられぬよう、そっとその建物に近づいていきました。
雨どいをつたう男は、まるで軽業師(かるわざし)のように身軽にスルスルとおりてきます。
下に警官がまちかまえていることは、すこしも気づかないようです。
男は地面から二メートルほどのところでパッと手をはなし、草むらの上に飛びおりました。
そして、ちょっとよろめいたその背後から、ひとりの警官がいきなり組みついていったのです。
「きさま、何者だ。ここの家で何をしたんだ」
警官はあやしい男をはがいじめにしてどなりつけました。
「シッ、声が高い」
男はすこしもあわてず、まるで上役が部下をしかるような調子で警官をだまらせておいて、はがいじめにされたまま、いそいで建物のそばをはなれていくのです。
そして、百メートルほど歩いて、一軒のバラック建ての家のかげまでたどりつくと、あやしい男は「やあ」とふつうの声で物を言いました。
「や、しっけい、しっけい、お騒がせしてすまなかった。ところで、きみたちはぼくの顔を知らないかね。懐中電灯を持っているでしょう。それでぼくの顔を照らしてごらん」
警官は言われるままに懐中電灯をつけて、男の顔を照らしてみました。そして、しばらく、みつめているうちに、何ごとか思いだしたようすで、一歩あとにさがり、ていねいなくちょうで言いました。
「もしや、明智先生ではありませんか。
たしか本庁で、一度おあいしたことがあります」
「そのとおりです。
ぼくは明智小五郎です」
「その明智先生が、いまごろ、どうしてこんなところに……」
「いろいろわけがあるのです。
ぼくが透明怪人の首領にさらわれたことは、もうきみの耳にもはいっているでしょう。
じつはあのビルが悪人の巣窟なのです」
「ああ、やっぱりそうでしたか。
すると、あのビルの中には、透明怪人の一団がいるわけですね」
「そうです。
ぼくはやっとの思いで、窓からしのびだしたのですが、そのことがわかれば、やつらは逃げてしまいます。
いそがなければなりません。
しかし、あなたがたふたりだけでは、どうすることもできない。
大いそぎで、警視庁の中村係長にれんらくしてくれませんか。
係長にあったうえで、てはずをきめたいのです」
「わかりました。
それじゃ、ともかく、署までご同行ください。
そこから、係長さんのお宅へ電話をかけましょう。
わたしとしましては、署長にも報告しなければなりません」
そこで、三人は、人通りのない深夜の町を、走るようにして、ほど遠からぬ警察署へと、いそぐのでした。
空家の怪
警察署から、警視庁に電話でといあわせますと、透明怪人事件の中村係長が、明智事務所にとまっていることがわかりましたので、また、そこへ電話をかけ、中村係長はすぐにかけつけてくることになりました。
まもなく、警察署長と明智探偵とがまっているところへ、中村係長はふたりの刑事をつれて、自動車でやってきました。
「おお、明智君、ぶじだったか。
よかった、よかった。
で、あいつは、その焼けビルの中にいるんだね」
中村係長は名探偵の手をにぎって、よろこびのことばをのべました。
「ぼくが逃げだしたことを気づいたとすれば、おそらくもう手おくれだろう。
しかし、すぐにあのビルを包囲してくれたまえ。
むろん、ぼくが案内するよ」
明智も係長の手をにぎりかえして、答えました。
「よし、出かけよう。
だが、きみはその焼けビルの中で、おくさんにあわなかっただろうね」
「え、おくさんって、文代のことかい」
明智がびっくりしたように、係長を見つめます。
「うん、じつに申しわけないことをしたんだ。
文代さんをさらわれてしまった。
くわしいことはあとで話すが、ぼくと黒川君と小林少年と、三人で文代さんをまもっていたんだが、何者かが、ぼくにねむりぐすりのはいったコーヒーをのませた。
それでグッスリねこんでいるあいだに、文代さんのすがたが見えなくなってしまった。
そればかりじゃない。
黒川君も小林少年もすがたが見えない。
ひょっとしたら、ふたりは文代さんのあとを追っているのかもしれないが、ぼくがでかけるまでにはかえってこなかった。
ちょうどそのとき、見はりの刑事たちは、へんな道化師にさそいだされて、きみのうちの裏口をはなれていた。
そのすきに文代さんをさらっていったのだ」
中村係長は、にせものの中村係長と黒川記者が、文代さんを自動車でつれだしたことも、小林少年がその自動車の下へブリキカンをとりつけたことも、まだ知らないのです。
「ぼくはすこしも知らなかった。
しかし、ぼくにあわせないように、あのビルのどこかへといじこめたのかもしれない。
いそいでくれたまえ。
文代をたすけださなければならない」
明智はさきに立って、警察署の玄関へかけだしていきました。
それから十分とたたないうちに、署長と中村係長にひきいられた警官隊が、焼けビルの中にふみこんでいました。
明智探偵は案内役としてまっさきにすすんでいます。
警官たちが手に手にふり照らす懐中電灯の光が、小さな探照灯のように、まっくらな洋館のすみずみをあかるくしました。
しかし、人かげはもちろん、道具らしいものもない。
空屋のような部屋ばかりです。
一階から二階、三階と、くまなくさがしまわりましたが、何もありません。
だれもいません。
三階建ての大きなビルの中は、まったくからっぽになっていました。
すばやい怪老人とそのなかまは、このすみかをすてて、どこともしれずすがたをくらましてしまったのです。
もうさがすところもないので、警官隊は一階におりてきました。
明智はやはりそのせんとうに立って、まっくらな廊下をあるいていましたが、とつぜん、ふっと立ちどまって、まえのくらやみをじっとみつめたかと思うと、やにわにそのほうにむかってかけだしました。
廊下のかどを一つまがると、そこはもうしんのやみです。そのやみの中に、何か黒いものが、ヒラヒラと動いているのが、感じられます。
明智はそれにむかって、とびついていきました。
「ワッ。」というような声がひびき、バタンとおそろしい音がしました。
明智をおって、かけつけた警官たちの懐中電灯が、いくすじも、パッと、そこを照らしました。
明智が上になって、何か黒いものを、おさえつけています。
黒いダブダブの外とうのようなものをきた人間です。
そいつが、明智をはねかえそうとして、グッと顔をあげました。
おお、四角なメガネ、白いあごひげ、怪老人です。
悪魔の首領です。
明智はみごとに、この大敵を、とっておさえたのです。
こちらには、おおぜいの警官がいます。
もう逃げようとて、逃げられるものではありません。
怪老人は、たちまち手じょうをはめられ、そのまま、ひったてられてしまいました。
怪老人はどうして、こんなへまをやったのでしょう。
いくらも、逃げだすひまがあったのに、なぜビルの中にぐずぐずしていたのでしょう。
そして、あいてが、いかに名探偵とはいえ、こんなに、やすやすと、つかまってしまったのは、なんだかへんではありませんか。
しかし、透明怪人の首領をとらえたうれしまぎれに、だれも、そこまでは気がつきません。
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