初級翻訳・智恵の一太郎 第17話

智恵の一太郎

「月もちょうどこれと同じなんだよ。
横の方にいる時は大きく見え、頭の上に昇ると小さく見える。
目には同じ大きさに映っているのに、まるで違っているように感じられてしまうのさ。
それに、月は風船なんかとは比べものにならないほど遠くにあるから、大きく見える度合いもずっと強いんだよ」
「わかりました!
ほんとうにふしぎですねえ。
でも、高橋さん、それはなぜなんですか?
どうして頭の上にある時は小さく見え、横にある時は大きく見えるんでしょう?」
「うん、いい質問だ!
さすがは君だなあ。
だがね……
それは僕にもわからないんだよ。
世界中の誰も、まだそのわけを知らないのさ」
「ええっ、誰も知らないんですって!?」
 一太郎君は、驚いた顔で聴き返しました。
「うん、本当のわけは、まだ解明されていないんだよ。
こういうことを研究するのは心理学という学問なんだけど、その道の専門家であっても、その理由はわかっていないのさ。
こうではないかと言って、自分の意見を発表した人はいろいろいるけれども、まだ『絶対にこれに違いない』というところまでは到達していないんだよ。
君はふしぎに思うだろうね。
こんな何でもないようなことが、世界中の学者にもわからないなんて!
だがね、この世の中には、わかっていることよりも、わからないことの方が、何十倍も何百倍も多いんだよ。
君が大きくなったら、そのたくさんのわからないことのうち、たった一つでもいいから、解き明かせるように、一生懸命に勉強してみるんだね。
そうすることが、君のような性質の人には、何よりも世間のためになり、お国のためになるのだからね」
 そう言って、高橋さんは、頬を赤らめて熱心に話に聞き入っている一太郎君の肩を、優しくぽんと叩くのでした。

兎とカタツムリ

 ごうーっと地響きを立てて、二人の目の前を、急行列車が通りすぎていきました。
二人は田んぼの中の細い道に立って、それを見送っていたのです。
空は青々と晴れわたった、ある秋の日曜日のことでした。
「ねえ、伯父さん、汽車ってものすごく早いですねえ。
もうあんなに小さくなってしまった!」
 学生服を着た少年が、遠ざかっていく汽車を見送りながら話しかけました。
この少年は、おなじみの一太郎君です。
話しかけられたおじさんは、いつも一太郎君に面白い理科のお話をしてくださる、あの農学博士の伯父さんです。
一太郎君は久しぶりに田舎の伯父さんの家を訪ねて、二人で近所へお出かけしている途中なのです。
「うん、実に早いねえ。汽車にくらべると、僕たちがこうして歩いているのは、兎と亀どころじゃない、兎とカタツムリほどのちがいがあるね。
 伯父さんはそう答えて、線路にそったたんぼ道を歩きだしましたが、しばらくすると、ふと何か思いついたように、一太郎君の方をふりむいて、こんなことをいうのでした。
「汽車はずいぶん早いが、その汽車よりも早いものが、まだいろいろあるね」
「ええ、あります。
自動車、飛行機、ロケット、それから……」
「それから?」
「あ、そうだ。
それから、大砲のたまです」
「うん、大砲のたまは、飛行機よりも早いね。
それから?」
「えーと、それから……」
 一太郎君は、そこで行きつまってしまいました。
その外に汽車より早いものなんて、ちょっと思い出せなかったのです。
「思い出せないかい。
形のないもので、もっと早いものがあるはずなんだがねえ」
「あ、そうか。
風でしょう。
暴風は汽車より早いんでしょう」
「うん、暴風も早いだろうね。
だが、まだほかにあるよ。
風は木の葉を吹き飛ばしたりするので、目に見えるといえば見えるが、もっと全く見えないものがあるんだ」
 一太郎君は、しばらくだまりこんで、あるいていましたが、いくら考えてもわかりません。
「そんなものがあるんですか。
へんだなあ。
僕、どうしても思い出せないんです」
「そうか。
それじゃ教えてあげよう。
それはね、音なんだよ」
「え、音ですって?」
「うん、耳にきこえるいろいろな物音だよ。
こうして話してる僕の声も、やっぱり音の一つだね」
「あ、そうか。
音は空気を伝わって、耳の鼓膜にひびくのですね。
その空気を伝わる早さが、汽車よりも早いのですね」
「そうだよ。
思い出したかい。
音の早さがどのくらいか、先生に教わったことがあるんだろう」
「え、教わったんです。
でも、僕、忘れちゃった」
「音の早さは、一秒間に三百四十メートル。
もっとも、これは空気の温度が摂氏十五度の時の早さで、それよりも熱くなれば、音の伝わり方はもっと早くなり、寒くなれば、おそくなるんだよ。
だから、冬よりも夏の方が、音は早くきこえるというわけだね。
早いとかおそいとか言っても、耳では感じられないくらいのちがいだがね」
「へえ、温度でちがうんですか」
「うん、温度ばかりじゃない。
音は伝わるものによって、みんな早さがちがうのだよ。
音は気体でも液体でも固体でも伝わる。
気体というのは空気のようなものだね。
液体というのは水のような流れるもの、固体というのは、木とか金とか、そのほかしっかりした形のあるものだね。
そこで、今思いついたんだが、一つ音の伝わる早さの実験をやってみようか」
「え、実験ですって? お家へ帰ってですか」
「いや、ここでやるんだよ」
「だって、ここには何も道具がないじゃありませんか」
「ないことはない。
ほら、そこに立派な道具があるじゃないか」
 伯父さんはそういって、横の土手の上を指さしました。
しかし、一太郎君にはまだわかりません。
へんな顔をして、きょろきょろそのへんを見まわしています。
「ははは……わからないかい。
ほら、それだよ。
むこうがわの土手の上のレールだよ」
「へえ、レールが実験の道具なんですか」
 一太郎君はびっくりしてしまいました。
そこには線路の土手が二重にならんでいて、むこうがわの線路は、新しくできた郊外電車のレールなのですが、まだ工事がすんだばかりで、電車は通っていないのです。
「そうだよ、こんなうまい道具は、どこの実験室へ行ったってありゃしない。
むこうがわの赤さびのレールが、僕たちの実験の道具になるんだ。
君に注意しておくがね、この実験は、ああいう汽車も電車も通っていないレールだからできるので、こちらがわのような、ふつうのレールでは、けっしてやってはいけないのだよ。
第一土手へのぼることも禁じられているし、もし実験中に汽車が来るようなことがあったら、命にもかかわることなんだからね。
実験がおもしろいからといって、ふつうの線路などで、こんなまねをするんじゃないよ。
いいかい。
わかったね」
 二人は話しながら、汽車の線路の方の踏切を通りすぎ、まだ電車の通っていない線路の土手にのぼりました。
しかれたばかりの赤さびのレールが、ずーっと目もはるかにつづいています。
「さあ、君はここにしゃがんで待っているんだよ。
僕は四十メートルほどむこうへ行って、そこでこのレールを、石でたたくからね、よーしといったら、君はこのレールへ一方の耳をつけて、その音を聞くんだよ。
近くではだめなんだ。
四十メートルぐらいはなれていないと、この実験はできないのだよ。

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