そういう騒ぎですから、怪人四十面相が宝石を盗みに来るということは、家中の人に知れ渡りました。スミ子ちゃんももちろんそれを知っているので、学校へ行っても先生のお話が耳に入らないほどでした。
主人の淡谷さんはその日は会社も休んで書斎で頑張ることにしましたが、スミ子ちゃんは学校へ行き、スミ子ちゃんのお兄さんの淡谷一郎君も会社へ出かけていきました。
淡谷一郎君は二十五歳で、まだ結婚前の青年でした。大学を出るとお父さんの会社に入り、普通の社員として毎日通っているのです。スミ子ちゃんには、このお兄さんのほかに兄弟はいませんでした。スミ子ちゃんは、午後三時半ごろに学校から帰ってくると、お父さんと小林少年が頑張っている書斎をのぞいてみたり、茶の間でお母さんのそばに座ってみたり、刑事さんたちがうろうろしている廊下を歩き回ってみたり、ときどき玄関のホールに出て、お兄さんが早く帰ってこないかしらと待ち構えてみたりと、そわそわして少しも落ち着きませんでした。
五時を少し過ぎたころ、玄関のドアが開く音がして、待ちわびていたお兄さんが会社から帰ってきました。
スミ子ちゃんはホールへ駆け出して行って、お兄さんを迎えました。お兄さんが靴を脱いでホールへ上がってくるのを待って、いつもの挨拶をしました。
スミ子ちゃんは、右手の人差し指をまっすぐに立てて自分の鼻の前にくっつけると、右目をパチ、パチ、パチと三回またたいて見せました。
これは二人だけが知っている暗号のようなもので、こうして仲良しの証拠を見せ合うことになっていたのです。
その合図をすると、いつもならお兄さんも同じようなことをして見せてくれるはずでした。
「同じ」といっても、少しだけ決まりがあります。
スミ子ちゃんが人差し指を立てて鼻にくっつけたときは、お兄さんは人差し指を横にして鼻にくっつけ、パチ、パチ、パチと三回またたきをすることになっていました。
逆に、スミ子ちゃんが人差し指を横にしたときは、お兄さんが縦にするという決まりです。
ところが今日に限って、スミ子ちゃんが同じことを二度も繰り返したのに、お兄さんは何もせず、黙ったまま二階の自分の部屋へ上がっていくのです。
革の書類カバンを右手にぶら下げたまま、そのまま上がっていきます。
これも、いつもとは違っていました。
普段なら、スミ子ちゃんがカバンを持ってあげて、お兄さんについて二階へ上がることになっていました。
そしてそのお礼に、お兄さんは机の引き出しにしまってあるチョコレートやキャラメルを、スミ子ちゃんにくれるのです。
ところが今日のお兄さんは、カバンをスミ子ちゃんに渡そうともせず、部屋に入ってもお菓子が入っている引き出しを開けようともしません。
スミ子ちゃんが机のそばに立っても、変な顔をしてジロジロと眺めるばかりです。
お兄さんは、四十面相がやってくるというので気が気ではなく、いつものやり方を忘れてしまったのでしょうか。
「どうしてカバンを持たせてくれないの? それにいつものご褒美は?」
スミ子ちゃんがすねたように言うと、お兄さんは変な顔をして、
「いつものご褒美だって?」
と聞き返しました。
引き出しのお菓子のことまで忘れてしまったのでしょうか。
「右の三つ目の引き出しよ。今日はチョコレートがいいわ」
スミ子ちゃんが言うと、お兄さんはやっとのことで思い出したように、
「ああ、そうだったね」
と言ってその引き出しを開け、チョコレートの包みを一つ取り出すと、「はい、ご褒美」と手渡してくれるのでした。
スミ子ちゃんは「ありがとう」と言ってそのままお兄さんの部屋を出ましたが、階段を降りたところで廊下の真ん中に立ち止まってしまいました。
なんだか変な気持ちです。
忘れようとしても忘れられない、いつもの決まりごとを、お兄さんはケロリと忘れていたのです。
スミ子ちゃんが教えるまで、お菓子が入っている引き出しさえ知らなかったなんて。
これは一体どうしたことでしょう。
いくら心配事があったとしても、そんなことまで忘れてしまうというのは、どうもおかしいではありませんか。
そのとき、階段でトントンと足音がして、お兄さんが降りてきました。
その音を聞くと、スミ子ちゃんはギョッとしたように階段の裏へ身を隠しました。
そして、お兄さんがお父さんたちのいる書斎へ入っていくのを、こっそりと覗いていました。
なぜそんな変な真似をしたのか、スミ子ちゃんは自分でもよく分かりません。
階段の陰から、書斎へ向かうお兄さんの後ろ姿を見ていると、
「あれが、本当に一郎お兄さんかしら?」
と、疑わしくなってきました。
頭の中に、お兄さんの姿と、あの恐ろしいコウモリ男の姿が、二重写しのように重なってボウッと浮かんでくるのです。
「まさか、そんなことがあるはずはないわ。いくら四十面相が変装の名人だって、あんなにお兄さんとそっくりに化けられるはずがないもの。でも、ひょっとしたら……」
スミ子ちゃんは、この恐ろしい考えに、顔の血がスウッと引いていくような気がしました。
きっと顔は真っ青になっていたに違いありません。
スミ子ちゃんは廊下を、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、歩き回るのでした。スミ子ちゃんは、どうしていいのか決心がつかずにいました。
「お父さんやお母さんに知らせたって、また『ノイローゼだよ』なんて言って、相手にしてくれないに決まっているわ。……ああ、そうだ! 小林さんに知らせよう。小林さんなら、きっとあたしの気持ちをわかってくださるはずよ」
でも、書斎へ行って小林少年を呼び出すわけにはいきません。そこには、あの恐ろしい一郎お兄さんもいるからです。もし、あのお兄さんが四十面相の変装だとしたら、すぐに感づかれてしまうに決まっています。
そんなことをいろいろと考えながら廊下をうろうろしていると、うまい具合に、書斎から小林少年が出てきました。お手洗いへ行くのかもしれません。スミ子ちゃんは廊下で待ち構えていて、そっと小林少年を呼び止めました。そして、小林君の耳に口を寄せて、何かをぼそぼそとささやいたのです。
小林君はそれを聞くと、まゆをひそめてしばらく黙っていましたが、こう言いました。
「君の考えが当たっているかもしれないね。ぼくはあいつにはたびたび騙されたことがあるから、あいつがどんな魔法使いかということをよく知っているんだ。変装は自由自在なんだからね。よしッ、ぼく、ちょっと出かけてくるよ。あいつがもし四十面相だとしたら、その裏をかいてやるんだ。じきに帰ってくるから。お父さんやお母さんには、なにも話さないほうがいい。君は知らん顔をしているんだ。わかったね」
小林少年はそうささやいておいて、そっと裏口からどこかへ出かけていきました。
午後十時。
まもなく小林少年が帰ってきて、書斎に入りました。もう夕方です。食事の時間になりました。食事は一人ずつ交代で食堂へ行き、書斎にはいつも三人のうち二人が残っているようにしました。小林少年が最後に食事に立ちました。もう七時を過ぎています。
書斎には淡谷さんと一郎青年の親子が残りました。もう話すこともなく、黙り込んで向かい合っています。
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