初級翻訳・怪奇四十面相 第6話

怪奇四十面相

すぐさまはしごがかけられ、屈強な若い警官が金テコを手に、頂上へと登っていきました。
ドシン、ドシンと金テコが天井に打ちつけられるたびに、釘で固定されていた出入り口のふたが、ギイギイと嫌な音を立てて、少しずつ持ち上がっていきます。
ああ、さすがの四十面相も、いよいよ運の尽きです。
もうどこにも逃げ場はありません。
出入り口が開き、そこから警官隊が屋根の上に乗り込んでしまえば、いくら四十面相が強敵でも、相手は大人数です。とてもかなうはずがありません。
かといって、塔の上から飛び降りれば、骨が砕けてしまいます。
絹糸の縄梯子はありますが、それをつたって降りるにしても、下にはたくさんの警官が待ち構えているのですから、すぐに捕まってしまいます。
もう、絶体絶命です。
逃げても逃げなくても、捕まるのは確実な状況でした。

ところが、そのとき、実に不思議なことが起こりました。
どうしても逃げられそうにない四十面相が、まんまと逃げおおせたのです。思いもよらない方法で、見事に脱出したのでした。
いったい、それはどんなやり方だったのでしょうか。

まだ、塔の屋根の出入り口が完全には開ききらない前のことでした。
劇場の前に群がっていた地上の人々から、「ワーッ! ワーッ!」という驚きの声がわき起こりました。
それまで地上の群衆は、探照灯に照らし出された塔の上を、息を殺して見つめていました。
「今に警官たちが屋根へ登っていくだろう。そうすれば、塔の上で大捕り物が始まるはずだ。それを見逃してなるものか」と、目を皿のようにして凝視していたのです。

すると、塔の上の空中に、何かがユラユラと揺れているのが見えました。
夜といっても空はうす明かりが残っており、そこに黒い小さなものが、ブランコのように揺れているのがぼんやりと見えたのです。
消防車の探照灯係もそれに気づいたのか、強い光がその揺れるものにパッと向けられました。
おお、ご覧なさい。真っ黒な姿の四十面相が、塔の屋根を離れて、空へと登っていくではありませんか。
何かに引き寄せられるように、夜の空高く、ズンズンと昇っていくのです。

「やあ、アドバルーン(広告気球)だ! アドバルーンにぶらさがっているぞ!」
誰かが叫びました。
夜空を、丸い風船がユラユラと昇っていたのです。探照灯がそれを照らし出しました。
大きな風船から綱が下がっており、その綱には、赤い布で作った『透・明・怪・人』という大文字が結びつけられています。『透明怪人』という劇の宣伝用アドバルーンだったのです。
アドバルーンは塔の屋根から綱で空に浮いていましたが、四十面相はその綱を切って、赤い布の大文字にすがりつき、大風船が飛び去るままに身を任せたのです。
ちょうどガスを充填したばかりで、大風船ははちきれんばかりにパンパンに膨らんでいました。それがグングンと空へ昇っていくのです。

探照灯の白い光がそれを追いかけ、丸い風船が銀色に光っています。その下に下がる赤い布の大文字、そしてその文字にすがりつく、真っ黒な怪人四十面相の姿。
探照灯の光の中、銀色の玉はだんだんと小さくなっていきます。夜空を高く高く、どこまでも昇っていくのです。
やがて四十面相の姿は見えなくなりました。大文字さえも視界から消えました。
そして、あの大風船は、まるで野球のボールのように小さくなってしまいました。

実に命がけの冒険です。
アドバルーンのガスは少しずつ漏れていきます。いつかは風船がしなびてくるでしょう。そして浮力を失い、やがて落下するのは確実です。
もしそれが広い海の上だったら、どうするのでしょうか。
そうでなくとも、陸地に落ちれば結局は同じことです。四十面相のことは日本中の警察に知れ渡っているのですから、どこに落ちてもすぐに捕まってしまいます。
四十面相は、いったいどうするつもりなのでしょうか。

【校庭の異変】

ここは千葉県市川市からそれほど遠くない、S村のS小学校の校庭です。
世界劇場の塔から四十面相がアドバルーンで飛び去った、その翌日のお昼過ぎのこと。
ちょうど休み時間で、生徒たちはS小学校の広い校庭に満ちあふれていました。野球をする子、かけっこをする子、隅の方にかたまって女の子らしい遊びをしているグループなど、校庭のあちこちから「ワーッ、ワーッ」という元気な声が上がり、ものすごい賑わいでした。
そのとき、真っ青に晴れわたった空のはるかかなたに、ポツリと黒い点があらわれ、それが少しずつ大きくなっていきました。
その黒い点がだんだん膨らんで、野球のボールほどの大きさになったとき、校庭で遊んでいた生徒の一人が、ようやくそれに気づきました。
「見てごらん、ほら、あそこから変なものが飛んでくるよ」
すると、まわりにいた他の生徒たちも、空のかなたを見つめました。
「変だなあ。あれ、空飛ぶ円盤かもしれないよ」
「まさか。でも、だんだん大きくなるね。こっちへ飛んでくるんだよ」
その丸いものがフットボールくらいの大きさになったときには、校庭にいた生徒全員が、空を見つめていました。何百人もの男の子と女の子が、もう身動きもせずに、一点をじっと見つめているのです。
いままで騒がしかったのがシーンと静まりかえって、なんだか恐ろしいような雰囲気でした。
「やあ、なんだか下がっているよ。赤い字だよ」
「風船だ。やあ、銀色に光ってるぞ。あれ、広告風船だよ」
はじめは黒く見えていたのが、大きくなるにしたがって銀色に光ってきたのです。
「アドバルーンだ。あれ、アドバルーンっていうんだよ」
みんながガヤガヤ言っているあいだに、その銀色の大風船は風に乗って、グングン近づいてきました。
「やあ、変だなあ。綱に人間がぶらさがっているぞ。真っ黒な人間がぶらさがっているよ」
少年たちは、怪人四十面相がアドバルーンにつかまって逃げたことを、まだ知りません。ですから、真っ黒な人間が下がった風船が飛んできたのが、不思議でしかたがありませんでした。
あまりの騒ぎに先生たちも校庭へ出てきましたが、先生にもわけがわかりません。みんなと一緒に空を眺めて、不思議がるばかりです。
大風船は、もうみんなの頭上に迫っていました。浮く力を失って、恐ろしい勢いで落ちてくるのです。ガスが抜けてしまったのか、銀色の大風船はいたるところがしわくちゃになっています。
「わあ、でっかいなあ」
本当に、でっかい風船です。
「あの黒い人、死んでいるのかしら。ちっとも動かないわ」
女の子が目ざとくそれに気づいて、高い声で叫びました。
「ほんとだ。死んでいるのかもしれないね」
「わあ、たいへんだ。風船はここへ落ちてくるよ」
いかにも、大風船はS小学校の校庭をめがけて、グングン落ちてくるのです。
「みんな、危ないから教室の方へ寄るんだ!」
先生の叫び声に、生徒たちはなだれを打って逃げまどいます。
「ワーッ、落ちた、落ちた!」
ワーッ、ワーッという騒ぎのなかに大風船は校庭に落ちてきました。そして地面とすれすれに、フワフワと風に吹き送られています。そのうしろの綱には、形のくずれた赤い布の大文字がくっつき、あの真っ黒な人間も一緒に、ズルズルと地面を引きずられていくのです。

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