初級翻訳・サーカスの怪人 第2話

サーカスの怪人

テントの外につないであった七頭の馬が、美しい女の子を乗せてぐるぐると回っているのです。
金糸銀糸の刺繍があるシャツを着た女の子たちは、馬の上でいろいろな曲芸を見せています。
普通のサーカスの三倍もあるような広いテントの中は、蒸し暑いほどの満員の見物客でした。
見物席は板を張った上にござを敷いており、観客はその上に座っているのですが、正面の見物席の後ろの一段高くなったところに、幕で囲った特別席がずっと並んでいます。
一つの仕切りに六人ずつ座れるようになっていて、そういう仕切りが十いくつも並んでいるのです。
その特別席の前には、座っている観客の頭が、ずっと真ん中の演技場までいっぱい並んでいます。
特別席の中ほどのすぐ前のところに、お父さんとお母さんに連れられた、ひとりの小学生が座っていました。
五年生か六年生ぐらいの少年です。
その少年が、ふとうしろを振り返りました。
観客はみんな演技場の方を夢中になって見つめているのに、この少年だけがなぜかひょいとうしろを見たのです。
天井も左右も幕で仕切られた箱のような特別席が、ずらりと並んでいます。
どの席にも五、六人の男や女の顔が重なり合っていましたが、真ん中辺の一つの仕切りには、まるで歯が抜けたようにがらんとして、誰もいないのです。
そこだけ変に薄暗くて、ほら穴の入り口のような感じなのです。
その空っぽの席へ目がいったとき、少年はなぜかゾーッとしました。
薄暗い仕切りの中に、ボーッと白いものが浮かび上がって見えたからです。
それは大きな黒眼鏡をかけた人間の顔のようでしたが、すぐにそうでないことがわかりました。
黒眼鏡ではなくて、二つの黒い穴なのです。
鼻のあるところも三角の穴になっていました。
そしてその下に、白い歯がむき出しています。
……骸骨です。
骸骨の顔だけが、宙に浮いていたのです。
少年はギョッとして、そのまま正面に向き直りました。
そして、サーカスの見物席に骸骨がいるはずはない、きっと僕の目がどうかしていたのだ、と思いました。「大丈夫だ、気のせいだ」と自分に言い聞かせましたが、もう曲馬(きょくば)の華やかな演技など、目には入りません。
やはりもう一度、後ろを振り返らずにはいられなかったのです。
怖い気持ちをがまんして、ヒョイと振り返ってみると、やはりそこには骸骨の顔が浮かんでいました。
いや、よく見ると浮かんでいるのではなく、骸骨がソフト帽をかぶり、オーバーコートを着て腰かけていたのです。
帽子もコートもねずみ色をしていたので、パッと見ただけでは分からなかったのです。顔だけが宙に浮いているように見えたのですね。
何度見直しても骸骨であることに間違いありません。少年はついに、隣に座っているお父さんの体をゆすって、
「お父さん、後ろに、変なものがいる!」とささやき、その方を指さして見せました。
お父さんはびっくりして、後ろを振り返りました。それに気づくと、お母さんも振り返りました。
誰の目にも、それは骸骨としか見えません。
「アラッ!」
お母さんが驚いて、思わずかん高い声を上げました。
すると、その近くにいた見物人たちが、みんな一斉に後ろを振り返ったのです。そして、オーバーを着た骸骨を目にしました。
見物席全体が、にわかにざわめき始めました。
大テントの中にいる千人以上の見物客が、全員後ろを向いたのです。そして、特別席にいる怪しいものを見つめました。
もう誰一人として、曲馬を見ている人はいません。
その時、真ん中の丸い演技場の端の方から、数人の人が走ってきました。
先頭に立っているのは、井上君とノロちゃんです。その後ろから、サーカスの係員が三人、走ってきます。
井上君は骸骨のいる特別席を指さして、「あそこだ、あそこだ!」と教えています。
その騒ぎに、演技場をぐるぐる回っていた七頭の馬も、ピタリと止まってしまいました。馬の背中で曲芸をしていた少女たちも、一斉に特別席の方を見つめています。
大テントの中の、すべての人の顔が、特別席を見つめたのです。
特別席の骸骨紳士は、何千もの目に見つめられても、別に慌てる様子はありません。彼は静かに椅子から立ち上がりました。
そして、特別席の前のほうへ、スーッと出てきたのです。
恐ろしい骸骨の顔が、電灯の光を受けてクッキリと浮かび上がりました。
それを見つめている千の顔は、まるで映画のフィルムが突然止まってしまったかのように、少しも動きません。声を上げる者もいません。
大テントの中は一瞬、死んだように静まり返りました。
骸骨紳士は、特別席の仕切りの前にある手すりにもたれて、不気味な白い顔を、ヌーッと見物人たちの方へ突き出しました。
そして、ニヤリと笑ったのです。
唇のない歯ばかりが、妙な形に開いて、ゾッとするような笑い方をしたのです。
見物席のあちこちで、「キャーッ!」という悲鳴が上がりました。
息を殺して怪物を見つめていた見物席が、稲穂が風に吹かれるように波立ち始めました。みんなが席を立って逃げ出そうとしたからです。
その時、井上君とノロちゃんを先頭にしたサーカスの男たちは、見物人の間をかき分けて、骸骨紳士の席へ近づいていました。その後ろからは、別の係員たちが、二人の警官と一緒に駆けつけてきます。
「ウヘヘヘヘ……」
なんとも言えない気味の悪い笑い声が、大テントの中に響き渡りました。
骸骨紳士がみんなをあざけるように、大笑いをしたのです。そして、サーッと特別席の奥の方へ身を隠しました。その仕切りの後ろにも幕が下がっています。そこから外へ逃げ出すつもりでしょう。
「アッ、逃げたぞ! みんな、後ろへ回れッ!」
誰かが叫びました。サーカスの男たちは、特別席の端を回って、その後ろへ走っていきます。

鏡の前に

骸骨紳士は、前と後ろから取り囲まれ、どこにも逃げ場所はなかったはずなのに、今度こそ煙のように消え失せてしまいました。
彼が現れた席の両隣に並んでいる特別席には、大勢の見物客が腰かけていたのですから、そちらへ逃げることはできません。前には千の目がにらんでいて、こちらもダメです。
残るのは後ろだけです。仕切りの幕をくぐって、特別席の外へ逃げるほかはないのです。
しかし、そちらにはサーカスの人たちが駆けつけていました。また、特別席の横の方には座席があって、そこからは特別席の後ろがよく見えるのですから、骸骨紳士が幕をくぐって逃げ出せばすぐに分かるはずです。
ところが、その見物人たちは「なにも見なかった」と言うのです。
サーカスの人たちも、特別席の後ろをくまなく探しましたが、何も発見できませんでした。そのころには、大テントの外にも、サーカスの係員たちが先回りをして待ち構えていました。
テントの裾をくぐって逃げ出すかもしれないと考えたからです。
しかし、骸骨紳士はそこにも姿を現しませんでした。
まったく、影も形もなくなってしまったのです。
怪物は、まるで火を吹き消したかのように、どこかへ消え失せてしまいました。

この騒ぎで、見物客の半分ほどは帰ってしまいましたが、残った勇敢な観客たちが「目玉である空中曲芸を見せろ」とやかましく言うので、そのまま演技を続けることになりました。

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