その時、木下ハルミという美しい女曲芸師が、大テントを出て、楽屋として使っている大型バスのほうへ急いでいました。
ハルミさんは「空中サーカスの女王」と呼ばれているこの一座の看板スターですが、空中曲芸を再開することになったため、忘れ物を取りに戻る必要があったのです。
大テントのそばの空き地には、車体に「グランド=サーカス」と書かれた大型バスが何台も停まっています。
ハルミさんはその一台に近づくと、バスの後ろにある三段ほどの踏み段を駆け上がり、ドアを開けました。
曲芸師たちはさっきの騒ぎで全員大テントの方へ行っているため、バスの中には誰もいないはずです。
誰もいないと思い込んで、勢いよくドアを開けたのです。
ところが、そこには薄暗い電灯の下、ねずみ色の服を着て、同じ色のソフト帽をかぶったままの男が腰かけていました。
このバスは女性専用の楽屋として使われているため、そこに男がいるなんて思いもよらないことでした。
ハルミさんはハッとして、その男をじっと見つめました。
バスの中には両側の壁に長い棚のようなものが取り付けられており、その上に化粧用の鏡がずらりと並んでいます。
男はその鏡の一つに向かって座り、自分の顔を映し出していたのです。
こちらからは横顔しか見えませんが、なんだか非常に嫌な、気味の悪い感じがしました。
「あら、そこにいるのは誰?」
ハルミさんがとがめるように言うと、男がヒョイとこちらを向きました。
ああ、その顔! 目があるべき場所は真っ黒な大きな穴になっていて、鼻も三角の黒い穴、その下には上下の歯がむき出しになっています。
あいつです。
さっき特別席から消えた骸骨紳士が、こんな所に隠れていたのです。
ハルミさんは「キャーッ!」と叫ぶと、踏み段を飛び降り、大テントの方へ駆け出しました。
消え失せた怪人
ハルミさんが駆け出すと、骸骨紳士がバスの中からヌーッと現れ、踏み段を降りると、ハルミさんの後を追って大股で歩いてくるではありませんか。
ハルミさんは後ろを振り返らずに走っているため、そのことに少しも気づいていません。
骸骨紳士の足取りはだんだん速くなり、しまいには宙に浮くように、足音一つ立てずに走り出しました。
そして、ハルミさんのすぐ後ろまで追いつき、今にも長い手を伸ばして、彼女の肩を掴みそうになったのです。
もしハルミさんが後ろを振り返ったら、あまりの恐ろしさに気を失ってしまったかもしれません。
それほどまでに、骸骨紳士はハルミさんにぴったりとくっついて走っているのです。
しかし、なぜかハルミさんを捕まえようとはしません。
ただ、寄り添うようにくっついているだけなのです。
幸い、ハルミさんは一度も後ろを振り返ることなく大テントの裏手にたどり着き、そのまま中へ駆け込みました。
「助けて……骸骨が……骸骨が……!」
大テントの裏口を抜けると、幕で仕切られた通路になっており、様々な曲芸の道具が並べられています。
そこに立っていた道具係の木村という男が、ハルミさんを抱きとめるようにして叫びました。
「あっ、びっくりさせるなよ。一体どうしたというんだ!」
「あら、木村さん、バスの中にあの骸骨がいたのよ。追っかけてきやしない? ちょっと外を覗いてみて!」
「えっ? あいつがバスの中に隠れていたっていうのか?」
木村はそう言うと、ハルミさんが入ってきた裏口からそっと顔を出して外を見ていましたが、
「何もいやしませんよ。あんた、気のせいじゃないですか? 怖い怖いと思い込んでいるから……」
「いいえ、確かにいたのよ。バスの中の鏡の前で、じっと自分の顔を見ていたのよ。それがあの骸骨だったのよ!」
ハルミさんは言い張ります。
すると、通路の横にある団長室の幕が開いて、サーカス団長の笠原太郎が出てきました。
「なんだ、騒々しい。何を騒いでいるんだ」
笠原団長は四十歳ぐらいの、がっしりした体格の男でした。団長は、紫色のビロードに金色の刺繍が輝く、ゆったりとしたガウンを羽織り、頭には同じ色の生地に赤い房飾りがついたトルコ帽をかぶっていました。
「ああっ、団長さん! 三号バスに、さっきの骸骨が隠れているんです。だから私、夢中で逃げてきたんです!」
「なにっ、骸骨がだと? よし、みんなを集めろ! 三号バスを取り囲んで、あいつをひっ捕らえるんだ!」
団長が大きな声で命令を下しました。すると、道具係が走り出してサーカス団の男たちを呼び集めました。十数人の男たちが三号バスを取り囲み、入り口から中を覗き込みましたが、バスの中には誰もいません。逃げ出したのだろうと周囲をくまなく捜索しましたが、何も発見することはできませんでした。
骸骨男は一体どこへ隠れてしまったのでしょう? ハルミさんを大テントの裏口まで追いかけてきたのですから、バスの中にいないのは当然ですが、テントの外の広場を隅から隅まで調べてもどこにも見当たらないというのは、どうしたわけでしょう。もしテントの中へ忍び込んでいれば、まだ開演中ですからサーカス団員や観客の目に留まらないはずがありません。またしても怪物は、煙のように消え失せてしまったのです。骸骨男は、何か不思議な魔法でも心得ているのでしょうか。
道化師の怪
その翌日の午前のことです。客を入れる前の、見物席の真ん中にある丸い演技場で、五人の大人道化師と三人の子ども道化師が新しい出し物の練習をしていました。
道化師ですから、それぞれが風変わりな服装をしています。赤と白の縞模様の服を着て、同じ柄のとんがり帽子をかぶり、顔には真っ白なおしろいを塗り、唇を真っ赤に染めて、両の頬に赤い丸を描いた男。赤地に白の水玉模様の服を着た男。胴体に大きな西洋酒の樽をはめて、首と足だけを出し、樽の両側に丸い穴をあけてそこから両手を出して踊っている、樽のお化けのような男。自分の頭の五倍もあるような大きな張り子の首をかぶって、チョコチョコと歩いている男など、ひと目見ただけで吹き出してしまうような変な格好をした男ばかりです。
三人の子ども道化師たちも、なんとも妙な姿をしていました。そのうち二人が少年で一人が少女でしたが、みんな十歳くらいで、白と赤と、赤白縞模様の大きなゴムまりの中に体を入れて、首と手足だけを外に出し、よちよちと歩いているのです。まるで、大きなまりが歩いているように見えます。
大人道化師たちは「ほうい、ほうい」と変な掛け声をして、逆立ちをしたりとんぼ返りをしたりします。樽を着ている男はゴロンと横になってその辺りをぐるぐる転がり回ったり、あるいは道化師同士で喧嘩の真似をして殴り合ったりします。殴られた男はわざとらしくピョンと横倒しになってゴロゴロ転がるなど、ありとあらゆる滑稽な仕草を練習していました。
それがひと通り済むと、今度は樽に入った男だけは別にして、残りの四人の大人が四方に分かれて不思議な玉投げを始めました。その玉というのは、大きなゴムまりに入った三人の子どもたちです。そのまりを両手で持ち上げて「ヤッ!」と放ると、相手の道化師が「ヨッ!」と受け止めます。ゴムまりの中に入っている子どもたちは目が回って非常に苦しいのですが、それに慣れるための練習なのです。
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