透明怪人になってしまったのです。
警官たちはこの不思議な光景を見せられて、思わず立ちすくんでしまいました。そこへ舞台の横から、いきなり小林少年が飛び出してきました。そして大声で叫ぶのです。
「中村さん、いつもの手です! あいつの得意なブラック・マジックです! 四十面相は洋服とシャツの下に、もう一枚黒いシャツとズボンを着ていたのです。そして黒い布で顔を包んだのです。すると黒い幕の前では、なにも見えなくなってしまうのです。あいつは黒幕の合わせ目から舞台の後ろへ逃げました! 早く追っかけてください! 全身まっ黒な怪物が四十面相です!」
「それっ!」という合図とともに、警官隊は黒ビロードの幕に押し寄せました。二枚の幕が真ん中で重なっていて、そこから舞台の裏へ出られるのです。
中村係長が先頭になってその黒幕をくぐり抜けました。ガランとした広い舞台裏には、小さな裸電球がところどころにぶら下がっているばかりで、しばらくは何も見えません。
やがて目が慣れるにつれて薄暗い隅々まではっきりと見えてきましたが、すると見上げるような高い天井から、まるで大きなクモのように、真っ黒な人間のような形をしたものが、細い紐でぶら下がっているのが分かりました。
その下へ近寄ってよく見ると、三十センチおきくらいに大きな結び玉のある細い黒い紐が、天井から下がっているのです。全身真っ黒な怪物は、その紐を伝って、足の指を結び玉にかけて、スルスルと登っていくのです。
「止まれッ! 止まらぬとピストルを撃つぞッ!」
中村係長が天井に向かって怒鳴りました。
しかし、黒い怪物は少しもひるまず、ますます速度を速めて登っていきます。登りながら体を左右に振るものだから、黒い紐が振り子のように揺れ始めました。もちろん、ピストルの狙いを外すためです。
「ぶっぱなせッ!」
中村係長の鋭い叫び声に応じて、一発、二発、三発とピストルが火を吹きました。
しかし、警官のピストルは相手を殺すためではなく、ただ動けなくするのが目的ですから非常に狙いが難しく、そのうえ標的はブランブランと激しく揺れているのです。なかなか当たるものではありません。
黒い怪物はついに天井の近くに開いている小さな窓にたどり着きました。そして窓枠にまたがると、黒い紐をスルスルと手早くたぐり上げ、そのまま窓の外へ姿を消してしまいました。
結び玉のある黒い紐は、四十面相の七つ道具の一つで、丈夫な絹糸をより合わせて作ったものです。伸ばせば何十メートルの長さになり、丸めてしまえばポケットに入るという便利な縄梯子(なわばしご)なのです。その絹糸の縄梯子は、世界劇場の屋根の一方にそびえる円形の塔の頂上に、しっかりと結びつけられていました。
そこから窓をくぐり、舞台裏へと垂れ下がっていたのです。
四十面相が、いざというときのために、あらかじめ用意していたものでした。
「屋根へ逃げたぞ!
みんな、外へ回れッ!」
中村係長の指示で、数人の警官を舞台裏に残し、残りの者たちはみんな劇場の外へと駆け出しました。
外はもう夕暮れどきでした。
世界劇場の建物にも、その辺のビルにもすでに電灯が灯り、隣の大新聞社の電光ニュースが、夕闇の中で美しく流れていました。
劇場の周りは、恐ろしいほどの人だかりです。
怪人四十面相が屋根へ逃げたという噂はまたたく間に広がり、人々の顔は一斉に空を見上げていました。
普通のビルでいえば六階ほどの高さの、劇場の屋根の一方には、西洋の古いお城のような丸い塔がそびえています。
その塔の上は平らになっており、周囲にはパリのノートルダム寺院の屋上にある有名な彫刻を真似た、コンクリート製の怪獣たちが、はるか地上を見下ろすように並んでいました。
薄暗くなった空に、それら怪獣たちの異様な姿が、黒くクッキリと浮かび上がっています。
そのとき、地上の群衆の中から「ワーッ!」「ワーッ!」という歓声が上がりました。
怪獣と怪獣とのあいだを、なにか黒いものがチョロチョロと動くのが見えたからです。
あまりに高い場所であることと、夕闇のせいでハッキリとは見定められませんが、たしかに怪獣とは別の形のものが動いたようです。
まさか、コンクリートの怪獣に魂が宿って動き出したわけではないでしょう。
中村係長の指示で、数人の警官が塔の中を駆けのぼり、一番上の部屋までたどり着きました。
しかし、塔の屋上へ出る出口は、四十面相が上からふさいでしまったので、どうすることもできません。
警官たちは窓から身を乗り出して、屋上の怪人に向かって何か叫んでいるばかりです。
その窓から半身を乗り出した警官の姿が、地上からもかすかに見えていました。
地上の群衆は刻一刻とその数を増し、劇場の前を通る電車も自動車も、いまは立ち往生の状態です。
しばらくすると、遠くのほうからサイレンの音が聞こえはじめ、ものすごい早さで近づいてきました。
警官隊が塔の下の群衆を整理しはじめます。
群衆は車にひかれることを恐れて逃げまどい、波が引くように、たちまち広い道がひらけました。
けたたましいサイレンの音を立ててそこに乗り込んできたのは、二台の消防自動車でした。
中村係長が機転をきかせて、近くの消防署に応援を求めたのです。
赤い自動車の上から、激しいエンジンの響きとともに一本のハシゴが、グーッと空に向かって伸びていきました。
同時に、もう一台の自動車からまぶしいほどのまっ白な光が、塔の上をめがけて矢のように飛びつきました。
探照灯の光です。
ごらんなさい。探照灯に照らし出された塔の上には、獣の体に鳥の羽が生え、人間の顔を持つノートルダムの怪獣が、恐ろしい形相で下界の群衆を見下ろしています。
その怪獣の背中に手をかけて、スックと立っているひとりの真っ黒な人間。
「アッ、あそこにいる!」「あれが四十面相だッ!」群衆の中からわき上がる驚きの声。
怪獣と肩を組んで、地上の大群衆をあざ笑っているのは、紛れもない怪人四十面相のすさまじい姿でした。
それにしても、四十面相はこれからどうするつもりなのでしょうか。
絶対に逃げ道がないではありませんか。
脱獄したと思ったら、もう捕まってしまう運命なのでしょうか。
塔の屋根の下の部屋には、数人の警官が詰めかけて窓から身を乗り出し、上のほうをにらみつけて口々に何か叫んでいますが、屋根の出っ張りが邪魔になって四十面相の姿を見ることができません。
その部屋の天井には屋根への出入り口があり、そこへ鉄のハシゴがかかっていたのですが、四十面相はあらかじめそのハシゴを取り外してどこかへ隠してしまい、屋根への出入り口は上からふたをして開かないようにしておいたのです。
ですから、警官たちはすぐ頭の上に四十面相がいることを知りながら、どうすることもできないのでした。
「ハシゴだ! 誰かハシゴを持ってこい。それから、長い金テコを持ってくるんだ。そしてハシゴにのぼって、屋根への出入り口を叩き壊すんだ!」「はしごだ! 誰か持ってこい!」
ひとりの中心的な警官が叫ぶと、若い警官二人が階段を駆け下りていきました。そしてしばらくして、木製のはしごと長い金テコを持って戻ってきました。
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