東京の読者諸君は、水道の係りの人たちが、あの丸い鉄のふたをとって、地中へもぐりこんで、工事をしているのを、よくお見かけになるでしょう。
今、二十面相は、その鉄のふたをひらいたのです。
そして、ヒョイとそこへとびこむと、すばやく中から、ふたをもとのとおりにしめてしまいました。
鉄のふたがしまるのと、五人のおまわりさんが町かどをまがるのと、ほとんど同時でした。
「おや、へんだぞ。
たしかにあいつはここをまがったんだが。」
おまわりさんたちは立ちどまって、死んだように静まりかえった夜ふけの町を見わたしました。
「向こうのまがりかどまでは百メートル以上もあるんだから、そんなに早く姿が見えなくなるはずはない。
塀を乗りこして、公園の中へかくれたんじゃないか。」
「それとも、川へとびこんだのかもしれんぜ。」
そんなことをいいかわして、おまわりさんたちは、注意ぶかく左右を見まわしながら、急ぎ足に例のマンホールの上を通りすぎて、公園の入り口のほうへ遠ざかっていきました。
マンホールの鉄ぶたは、五人の靴でふまれるたびに、ガンガンとにぶい響きをたてました。
おまわりさんたちは、そうして、二十面相の頭の上を通りながら、少しもそれと気づかなかったのです。
東京の人は、マンホールなどには、なれっこになっていて、そのうえを歩いても、気のつかぬことが多いのです。
五人の警官がしょうぜんとして大鳥時計店にたちかえり、事のしだいを明智に報告したのは、それから二十分ほどのちのことでした。
それを聞いて、明智探偵は失望したでしょうか。
警官たちの失策にかんしゃくをおこしたでしょうか。
いやいや、けっしてそうではありませんでした。
読者諸君、ご安心ください。われわれの名探偵は、これしきの失敗に勇気を失うような人物ではありません。
彼のすばらしい脳髄には、まだまだとっておきの奥の手が、ちゃんと用意されていたのです。
「いや、ご苦労でした。
ぼくもあいつが、ぬけ穴の中に変装の衣装を隠していようとは思いもおよばなかった。
しかし、諸君、失望なさることはありませんよ。
こういうこともあろうかと、ぼくはちゃんと、もう一段奥の用意がしてあるのです。
二十面相はしゅびよく逃げおおせたつもりでいても、まだぼくの張った網の中から逃れることができないのです。
見ていてください。
明朝までには、きっと諸君のかたきをとってあげますよ。
ほんとうをいえば、あいつが逃げてくれたのは思うつぼなのです。
ぼくはゆかいでたまらないくらいです。
なぜって、そのぼくの奥の手というのは、じつにすばらしい手段なのですからね。
諸君、見ていてください。
二十面相がどんなに泣きつらをするか。
ぼくの部下たちが、どんなみごとな働きをするか。
さあ、小林君、二十面相の最後の舞台へ、急いで出かけるとしよう。」
名探偵はいつに変わらぬほがらかなしみ笑いを浮かべて、愛弟子の小林君を招きました。
そして、大鳥時計店を立ち出でますと、そこに待たせてあった自動車に乗って、夜霧の中を、いずこともなく走り去ったのでありました。
さて、わたしたちは、もう一度、あの公園の前に立ち戻って、マンホールの中へ隠れた二十面相が、どんなことをするか、それを見定めなければなりません。
警官たちが立ち去ってしまいますと、そのあたりはまた、ヒッソリともとの静けさに返りました。
深夜の二時です。
人通りなどあるはずはありません。
遠くの方から犬の鳴き声が聞こえていましたが、それもしばらくしてやんでしまうと、この世から音というものがなくなってしまったような静けさです。
黒く夜空にそびえている公園の林のこずえが、風もないのにガサガサと動いたかと思うと、夜の鳥が、あやしい声で、ゲ、ゲ、と二声鳴きました。
空は一面に曇って、星もない闇夜です。
光といっては、ところどころの電柱に取り付けてある街灯ばかり。
その街灯の一つが、二十面相の隠れたマンホールの黒い鉄板の上を、うすぼんやりと照らしています。
でも、マンホールのふたは、いつまでたっても動かないのです。
ああ、二十面相は、あの暗闇の土の中で、いったい何をしているのでしょう。
長い長い二時間がすぎて、四時となりました。
東の空がうっすらとしらみはじめています。
遠い江東区の空から、徹夜作業の工場の汽笛が、夜明けの近づいたことを知らせるように、もの悲しく、かすかに響いてきました。
すると、街灯に照らされたマンホールのふたが、生きものででもあるかのように、少しずつ動きはじめました。
やがて、鉄板はカタンとみぞをはずれて、ジリジリと地面を横へすべっていきます。
そして、その下から、まっ黒な穴の口が、一センチ、二センチと、だんだん大きくひらいていくのです。
長いあいだかかって、鉄のふたはすっかりひらきました。
すると、そこの丸い穴から、新しいネズミ色のソフト帽がニューッとあらわれてきたではありませんか。
そして、そのつぎには、鼻の下に黒いヒゲを生やしたりっぱな青年紳士の顔、それからまっ白なソフト・カラー、はでなネクタイ、折り目の正しい上等の背広服と、胸のへんまで姿を見せて、その紳士は、注意深くあたりを見まわしましたが、どこにも人かげのないのをたしかめると、パッと穴の中から地上に飛びだし、すばやく鉄のふたをもとのとおりにしめて、そのまま何くわぬ顔で歩きはじめました。
この青年紳士が、怪盗二十面相の変装姿であったことは、申すまでもありません。
ああ、なんという用心ぶかいやり口でしょう。
二十面相は、何か仕事をもくろみますと、まんいちの場合のために、いつもその付近のマンホールの中へ、変装用の衣装を隠しておくのです。
そして、もし警官に追われるようなことがあれば、すばやく、そのマンホールの中へ身を隠し、まったくちがった顔と服装とになって、そしらぬ顔で逃げてしまうのです。
読者諸君のおうちの近所にも、マンホールがあることでしょうが、もしかすると、その中に、大きな黒いふろしき包みが隠してあるかもしれませんよ。
まんいちそんなふろしき包みが見つかるようなことがあれば、それは二十面相が、そのへんで何かおそろしいもくろみをしたしょうこなのです。
さて、二十面相の青年紳士は、急ぎ足に近い大通りへ出ますと、そこの駐車場にならんでいた一番前の自動車に近づき、居眠りをしている運転手を呼びおこしました。
そして運転手がドアをひらくのを待ちかねて、客席へとびこみ、早口に行く先をつげるのでした。自動車は、だれもいない夜明けの町を、ものすごいスピードで走っていきます。
銀座通りを出て、新橋をすぎ、環状線を品川へ、品川から京浜国道を西に向かって一キロほど進み、そこからとある枝道を北へ入ってしばらく行くと、だんだん家がまばらになり、まがりくねった坂道の向こうに、木々に囲まれた小さな丘が見えてきました。その丘の上には、ポツンと一軒の古風な洋館が建っているのが眺められました。
初級翻訳・少年探偵団 第32話
少年探偵団
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