近江の地誌『近江輿地誌略(おうみよちしりゃく)』が書かれた当時の「愛護民譚(みんたん)」は、説経節以前の古い形式を残していたと同時に、その後の時代に作意や脚色が加えられた物語も、雑多に取り込んでいたに違いありません。それだけ入り組んで複雑になった物語から、一本の筋の通った物語を抽き出そうとするのは、当時の人にとっても困難だったことでしょう。そのため、「長物語」以前と以後のたくさんの要素を顧みることなく、ただ野蛮な人々の信仰が淫らで乱れていることを嘆いていましたが、寒川氏が想像していたよりも、この物語はかなり古く、それでいて若々しい物語なのです。
不遇な一生を終えた愛護若は、怨みの言葉を書き残すほどの執念を持ちながらも、現世に転生しました。物語の中に神仏の由来を説く「本地物語」が出現したのは、御霊信仰(怨霊を鎮める信仰)が少しずつ力を失い始めた頃からのことです。
高貴な身分でありながら流浪する民譚が、「児ヶ淵(ちごがふち)」の民譚と結びつき、さらにそこに山王祭りのさまざまな由緒を取り込んで一つの民譚として固まったのは、継子いじめの物語や、児(ちご)物語、本地物語といった土台が定まり、何十人、何百人もの追腹(主君の後を追って腹を切ること)を家門の誉れと考えた時代のことだったのでしょう。百八人もの殉死という結末は、愛護民譚が固定されたこの時代が、少なくとも「長物語」よりも新しいものであることを示しています。
一人の美少年を中心にして、近隣の二つの大きな寺院の間に争いが起き、何百人もの侍法師たちが死体となってさらされたという物語は、他にも例があります。「長物語」の梅若丸は、多人数を犠牲にする物語でしたが、愛護若の物語では、それが「百八人の殉死」という特別な意味を持った犠牲へと変化してきています。これは間違いなく、比叡山の延暦寺と園城寺という、山門・寺門の長い争いの歴史が、この恋愛問題とは無関係であるはずの美少年の物語の上に、多人数が仏果を得るという物語として姿を変えて復活したのです。
悲惨な物語が、光あふれる功徳の物語へと変わったという点では、「長物語」との関連があると言えなくもありません。しかし、これだけでは単なる傍証となるだけで、愛護若と梅若丸が、しばらくの間は一つの兄弟のような関係であると断言するわけにはいきません。
穴生(あのう)という土地は、穴太臣(あのうのおみ)や穴生村主(あのうのすぐり)といった一族が古くから住んでいた場所です。あるいは、穴太部(あのうべ)や、穴穂(あなほ)天皇(安康天皇)との関係も考えられるかもしれません。
そうであれば、穴穂天皇を叔父とした億計(おけ)王・弘計(をけ)王の流浪の物語が、都から西へと伝わっているとしても、蒲生郡の蚊屋野(かやの)が二王子のさすらいに深く関わっていることを見れば、穴穂天皇と蚊屋野を通して、この穴生の地もまた、高貴な人の流浪物語と無関係な土地ではなさそうな気がするのです。
この想像と似たもう一つの想像が、昔の語りの姿を思い起こさせます。それは、穴太部の語り部たちが、果実を呪い殺した貴人の物語を語り伝えていたのではないか、ということです。
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