初級翻訳・日本の伝説 第29話

日本の伝説

一方の伊勢の神さまも、「あちらは必ず御神馬(ごじんめ:神さまの立派な馬)に乗ってビューとかけて来るにちがいないから、これはなんとしてもよほど早く出発しないと負けてしまうぞ!」とあわてて、まだ夜も明けない真っ暗なうちにおうちを出発なされたのです。
そのせいで、なんと逆に春日の神さまの方がものすごく早く伊勢の領地に入ってしまい、「宮前村(みやまえむら)」の「めずらし峠」という山の上で、あとからやって来た伊勢の神さまとばったりお出あいになってしまいました。
伊勢の神さまはびっくりして、「おお、春日(かすが)はん、こんなところで珍しいのう!」と声をかけられたので、そこからこの場所を「めずらし峠」と呼ぶようになったのです。
しかし、ここをそのまま国境にしてしまうと、今度は伊勢の領分があまりにも狭くなってかわいそうだとということになり、こんどは大神宮さまのほうからお願いがあって、「今度は小さな笹舟(ささぶね)を作って水に浮かべ、その舟が流れて止まったところを本当の境にしよう」ということになりました。
その頃はまだこのあたりの山も一面の水びたしで、その水があまりにも静かだったため、浮かべた笹舟は少しも流れませんでした。
そこで伊勢の神さまが、近くにあった一つの石をひょいと取り上げて、「これは男石(おといしざん)だ!」と言いながら水の中にポチャンと投げ入れました。するとどうでしょう、不思議なことに笹舟はスーッとただよっていって、今の「舟戸村(ふなどむら)」のところできれいに止まり、水は高見山の嶺を越えて大和の方へ少しだけ流れていきました。
それを見て伊勢の大神さまが、「舟は舟戸(ふなど)に止まり、水は過ぎた(すぎた)の方へ流れたなあ」とおっしゃったので、伊勢の側には「舟戸村」という名前ができ、大和の方には「杉谷(すぎたに)の村」という名前ができたのです。
この二つの村の名前は、どちらも神さまが直接お付けになった、ものすごく古い由緒ある名前だといわれています。
そのとき伊勢の神さまが投げた「男石」は、今でもそのめずらし峠の山の中にちゃんと残っていて、新しい道路を通っても、遠くからすごくよく見えるそうですよ。村の家でこれから赤ちゃんの生まれそうな人は、今でもこの男石(おといし)めがけて小石を投げつけ、生まれてくる子が男の子か女の子かを占っています。
男の子が生まれる時には、必ずその小石が男石に当たると言われているのです。
三十年ほど前までは、この男石の近くに、古い大きな榊(さかき)の木が、神さまとして祀(まつ)られていました。
伊勢の神さまが神馬(じんめ)に乗り、榊の枝をむち代わりにしておいでになったとき、ちょっと地面にさして置かれたものが、そのままグングン成長して大木になったのだそうです。
そのため、この木の枝はどこともなく全部下の方を向いて伸びていると言われていました。
この木を「さかき」と呼ぶのも、「逆木(さかき)」という意味で、ここがその始まりだったんだと土地の人たちは話しています。
(『郷土研究二編』三重県|飯南郡宮前村)

大和(やまと)と熊野(くまの)の国境(くにざかい)のあたりでも、これとよく似たお話が伝えられているそうです。
春日の神さまは、熊野の神さまとお約束をして、ちょうど肥前の松浦の人たちと同じように、お互いに歩いていって行き会った場所を領地の境目にしようとなさいました。
「熊野の神さまは烏(からす)に乗って一飛びに飛んでこられるから、のろのろしていたら負けてしまうぞ」と思った春日さまは、まだ夜も明けない真っ暗なうちに鹿に乗って大急ぎでお出かけになりました。一方の熊野の神さまのほうは、すっかり油断してまだお家の中でゆっくり休んでおられたのです。
お約束通りにそのまま境界線を決めてしまうと、熊野の軒先までが大和の領分になってしまって困るので、熊野の神さまは無理を言って春日さまにお願いし、熊野の烏が一飛びする分だけ、地面を少し返してもらうことにしました。
だから、今でも奈良県は南の方へ広くて、熊野はその境目までがすごく近くなっているのだと言い伝えられています。なんだかまるで、ウサギとカメの昔話のようですね。

これとよく似た言い伝えが、なんと信州(しんしゅう)にもありました。
信州では、諏訪大明神(すわだいみょうじん)が国の境をお決めになるために、安曇郡(あづみぐん)を通って越後(えちご)の「強清水(こわしみず)」というところまで行かれました。するとそこへ、越後の「弥彦権現(いやひこごんげん)」がお出ましになって、「ここまで信濃(しなの)に入られては、越後の領分があまりにも狭くなってしまうから、もう少し上の方を境にしようじゃないか」ということになり、二人は「白池(しらいけ)」というところまで戻って、そこを正式な境にすることにしたのです。
それから西へまわって、越中の「立山権現(たてやまごんげん)」や、加賀の「白山権現(はくさんごんげん)」ともお出あいになられて、ぜんぶで三箇所の国境がきまりました。それからというもの、七年に一度ずつ、諏訪から「内鎌(うちかま)」という使いの者がやってきて、境目にしっかりと目印を立てたということです。
(『信府統記』)

この同じお話を、また次のように語っている人たちもいます。
むかし国境を決めるときに、「諏訪さまは牛に乗り、越後さまは馬に乗って、途中で行き会ったところを境にしよう」というお約束をしました。越後さまは「馬の足は早いから、あまり行き過ぎたら申し訳ないな」と思い、夜が明けてからゆっくりとお出かけになりました。
一方の諏訪さまの方は、「牛は足がのろいから」と、夜中のうちにパッと出発して大急ぎでやって来られたため、なんと越後側の「塞の神(さいのかみ)」というところまで先に行ってしまい、そこでやっと越後さまの馬とばったり出あったのです。
「これは行き過ぎてしまったぞい」と、少し引き返して仕切り直したというその場所が、「諏訪の平(すわのだいら)」と呼ばれるようになったのだそうです。
(『小谷口碑集』新潟県|西頸城郡根知村)

むかしはこういうふうに、国の境を「遠いところ」と「近いところ」の二箇所にきめておくという習慣があったらしいのです。
そうしておけば、なるほど土地をめぐる喧嘩(けんか)がすこしで済んだというわけですね。

豊後(ぶんご)と日向(ひゅうが)の境にある山道などでも、山の嶺(みね)から少し下ったところに、お互い大きなしるしの杉の木が立っていました。
そして、豊後側の領分に寄っている方を「日向の木」と呼び、これとは反対に日向の側にある方の杉を「豊後の木」と言い習わしていたのです。
百年ほど前に、その「豊後の木」が枯れてしまったので切り倒してみたところ、なんと太い木の幹からたくさんの錆びた矢の根っこ(鏃=やじり)が出てきました。
ここは「矢立の杉(やたてのすぎ)」とも呼ばれていて、昔はその木の下を通る旅人たちが、その木に向かって矢を射り込むことを、国境の神さまをまつる大事な作法としていたからなのです。
箱根の関山(せきやま)にも、甲州の笹子峠(ささごとうげ)にも、むかしは大きな「矢立杉」の木がちゃんと立っていました。

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