信州の諏訪にある「内鎌(うちかま)」というものも、その矢の代わりに鉄の鎌を神木の幹に打ち込んだ名残ではないかと考えられています。
最近になってからも、国境の近くにある大木の幹から、めずらしい形をした古い鎌がときどき見つかることがありました。
そして、それと同じ形の鎌が、諏訪では今でもお祭りに使われています。「薙鎌(なぎかま)」と漢字で書くのが正しいようです。
何にせよ、諏訪の明神さまが国の境をお決めになったという伝説は、このように鎌を打ち込む神木があったからこそ生まれたものに違いありません。けれども、そのお話の内容は、時代がたつにつれて少しずつ変化していくものなのです。
たとえば、「越後の神さまは諏訪の神の母親で、子どもの様子が知りたくて、わざわざ越後からやって来る途中の国境で諏訪の神さまとお出あいなされ、諏訪の神さまが鹿島(かしま)・香取(かとり)の神さまに降参させられたという話を聞いてがっかりし、ここから引き返して越後へお帰りになった」などというお話は、のちに歴史の本を読んだ人があとから考え出したものであり、安房(あわ)や上総(かずさ)で源頼朝(みなものよりとも)の旅の出来事をあとから結びつけて語ったのと同じような、人々の想像なのだろうと私は思います。飛騨(ひだ)の山奥にある黍生谷(きび生(お)うだに)という村などでは、昔、川下の阿多野郷(あたのごう)との境界線がはっきりしなくて、いがみ合いが起きて困っていました。そこで、双方の村の人が約束を結び、黍生谷では黍生殿(きびおうどの)、阿多野では大西殿(おおにしどの)という人物を頼み、牛に乗ってそれぞれの場所から歩み寄り、行き会った場所を自分たちの領分の境にしようと決めました。
尾瀬が洞(おぜがほら)の橋場で、その二頭の牛がちょうど出くわし、それ以後はここを村の境と定めたと伝えられています。
その黍生殿も大西殿も、どちらも木曽から落ち延びてきた隠居の武士だったということですが、このお話はまったく春日と熊野、あるいは諏訪と弥彦(いやひこ)の「出逢い裁面(さいめん)の伝説」とまったく同じものであります。
(『飛騨国中案内』岐阜県|益田郡朝日村)
美濃(みの)の武儀郡(むぎぐん)の柿野(かきの)という村と、山県郡(やまがたぐん)北山という村との境には、「たにのしお」という場所があって、そこに柿野の氏神さまと、北山の鎮守さまが、お別れの盃(さかずき)を交わされたという言い伝えがあります。
金の盃と、黄金の鶏(にわとり)をその土地へ埋めてお帰りになったので、今でもお正月の元日の朝には、その黄金の鶏が出てきて鳴くのだと言われています。
(『稿本美濃志』岐阜県武儀郡|乾村)
二つの土地の神さまを、同じ日に同じ場所でお祭りするという風習は、あちこちにありました。
そうすれば隣り同士の仲が良くなり、境界線をめぐる争いは起きなくなるにきまっています。
地図も記録もなかった昔の世の人たちは、こうしてだんだんと無理な争いをせずに、よその村の人たちと仲良くつきあうことができるようになったのです。
だからどこの村でも伝説をとても大切にしていましたし、もし伝説が消えたり変わったりしてしまえば、お祭りのもともとの意味がわからなくなってしまうのでした。
行き会い祭りをするお社(やしろ)は、特別になんという神様に決まっていなければならないということはありませんでした。
信州では雨宮(あめのみや)の山王(さんのう)さまと、屋代(やしろ)の山王さまとが同じ三月の申(さる)の日の申の刻に、村の境の橋の上に二つのお神輿(みこし)が集まって、共同の神事を行いました。
その橋の名前を浜名の橋といっています。
東京の近くでも、北と南の品川の天王(てんのう)さまのお神輿が、二つの宿場の境に架けられた橋の上で出あい、橋の両側のたもとにあるお旅所(たびしょ)でお祭りをしました。
そして、その橋のことを「行き会いの橋」と呼んでいるのです。
東京湾の中のあちこちの海岸には、今でも同じようなお祭りを行っているところがいくつかありますが、もともとは村の境界線を決めるのが目的だったということを、もう忘れてしまっている人が多いようです。
そうして、どちらか一方が姫神(ひめがみ)である場合などは、これを神さまと神さまの「御婚礼(ごこんれい)」なのだと思う人が多くなっていったのでした。
**たもと石**
むかし備後(びんご)の下山守村(しもやまもりむら)に、太郎左衛門(たろうざえもん)という信心深い農夫がいて、毎年かかさず安芸(あき)の宮島へお参りをしていました。
ある年、神さまの前で拝んだあと、「私ももう年をとってしまいました。お参りもこれが最後でございましょう」と言って帰ってきましたすると、船の中で自分の着物の袂(たもと)に小さな石が一つ入っていることに気づきました。
誰か乗り合わせた人がいたずらをしたのだろうと思って、その石を海へポイと捨てて眠ってしまいました。
翌朝、目を覚まして見ると、なんと昨日の小石がまた自分の袂の中に入っているのです。
あまりにも不思議に思ったので、大切に村へ持って帰り、近所の人にその話をしましたところ、「それはきっと神さまからいただいた石にちがいない。おまつりしなければならないよ」ということになり、小さなほこらを建ててその石を中に祀り、厳島大明神(いつくしまだいみょうじん)と称えてあがめていました。
その石がのちにだんだんと大きくなったということで、このお話をしてくれた人が実際に見た時には、高さが一尺八寸(約55センチ)ほどもあり、周りの長さが一尺二、三寸(約40センチ)ほどもあったと語っています。
それからどうなったのかはわかりませんが、もし今でもまだその石があるのなら、さらにものすごく大きくなっているはずであります。
(『芸藩志料』広島県|蘆品郡|宜山村)
信州の小野川(おのがわ)には、「富士石」という大きな岩があります。
これは昔、この村の農民が富士山に登り、お山の上から拾ってきた小さな石でした。
家の近くまで帰ってきたとき、着物の袂のホコリを払おうとした際、そのホコリにまぎれてこの場所へ落としてしまったものが、いつの間にかこのように大きく成長したのだと言い伝えられています。
(『伝説の下伊那』長野県下伊那郡智里村)
また、同じ地方の今田(いまだ)の村に近い水神さまのお社には、「生き石」という大きな岩があります。
これは昔、ある女性が天竜川の川原で美しい小石を見つけて拾い、袂に入れてここまで歩いてくるうちに、袂がずっしりと重くなったので不思議に思って中を見てみると、その小石がすでに大きくなっていたのです。
しかも、自分が爪の先で突いた小さなキズが、石の成長とともにそのまま大きくなっているので、すっかりびっくりして、この水神さまの前へその石をほうり出しました。
それがさらに成長して、しまいにはこのような巨大な岩になったのだと語り継がれています。
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