一
その藩にずっと伝わっている「杏花亭筆記(きょうかていひっき)」という古い本には、土井悠二郎(どいゆうじろう)という人物について、大体次のようなことが書かれています。
「土井右衛門、名は悠二郎。
忠左衛門茂治(ちゅうざえもんしげはる)の次男として生まれましたが、ある事情があって七歳まで一般の町家(まちや)で育ちました。
八歳の春からは、小さなお殿様(幼君)のお相手役としてお城(御殿)にあがり、ずっとおそばを離れずに仕えましたが、二十一歳のときに仕事を辞めました(致仕した)。
もともとの性格が型破りで自由奔放、いつでも変わった行動が多く、『宗眼日録(そうがんにちろく)』という記録には、仕事の仕方が良くなかったということが何度も書かれています。
仕事を辞めてからは街の中に身を隠し、親戚や昔の友達とも付き合いを断って、何もしないまま一生を終えたということです。
また、お城の大きなお屋敷の庭の奥に、今では立派な大木になった桑の林があるのは、泰春院(たいしゅんいん)さまが子供のころ、彼のすすめで植えられたものだと伝えられています。ですが、そんなふうにお殿様に進言するあたりも、彼の型破りなわがままな性格の表れなのでしょう。
――ちなみに『宗眼日録』というのは、泰春院さまの一代を記録したもので、歴代のお殿様の中でもお寺や政治を立て直した「中興(ちゅうこう)」であると同時に、めったにいない素晴らしい名君と言われたお殿様の、生涯と政治の成果が詳しく書かれているものです。
書いた人は新泉宗十郎(しんぜんそうじゅうろう)で、のちに国の家老となり、宗眼と号しました」
以上が書かれていた内容の大まかなまとめですが、かなり評価が低く書かれています。
「生まれつき自由奔放で型破り」だとか、「仕事の態度がよくない」だとか、なかなかひどい言われようです。
大名屋敷の奥庭――町家なんかでもそうですが――に桑の木を植えるなんていうのは確かにちょっと変わっていますが、それが「型破りで変ちくりん」と言われるほどのことなのでしょうか。
一概には決めつけられないでしょう。
また、読んでくれるみんなのために、同じ「杏花亭筆記」に書かれている彼の祖父についての記事も、大切なところだけを抜き出して紹介しましょう。
「土井勘右衛門(どいかんえもん)、号は虚木(きょぼく)。
浄松院(じょうしょういん)さまの時代に、代々受け継ぐ留守役(るすやく)から側御用(そばごよう)に選ばれ、家老の仕事も兼ねてお殿様からの信頼がとても厚く、浄松院さまがお亡くなりになったあとは、跡取り息子(世子)の教育に全力を注ぎました。
泰春院さまの賢くて決断力のある素晴らしい気質は、この勘右衛門のおかげで育ったところが大きいとも言われています。
――また、別の人からの評価もあります。
彼は豪快で気風(きふう)がよかったけれど、お酒が好きで、お年寄りになってからも遊びの街(遊里)に出入りし、流行歌や俳句(俳諧)が得意で、ふだんの暮らしぶりには堅苦しいところが少なかった、と」
こちらにも「別の評価」として、ちょっとした批判が付け加えられています。
お城の重い役職であるうえに、お殿様の子供のころの育て役だというのですから、相当な立派な人格者でなければならないはずなのに、お酒が好きで遊び場に出入りしていて、ふだんの暮らしもだらしがない(不拘束)となると、あまり褒められたお話ではありません。
――そしてこの点が、孫である悠二郎の「自由奔放で型破りなところ」と、何か深いつながり(因果関係)があるのではないでしょうか。
悠二郎は双子(双生児)でした。
お兄ちゃんは左門松太郎(さもんまつたろう)という名前でした。
武家(サムライの家)では双子は縁起が悪いと嫌われていたので、生まれるとすぐに他人の家へ里子に出されました。
杏花亭の本にはただ「町家」とだけ書かれていますが、くわしく言うと、浅草六軒町(あさくさろっけんちょう)にある「舟仙(ふなせん)」という舟宿(川船の宿や待合所のようなところ)でした。
お父さんの忠左衛門はとてもまじめで堅い性格で、留守役という人と付き合うことが多い仕事をしていながら、お酒もあまり飲まず、たった一つ金魚を飼うことだけが趣味で、囲碁も将棋も知らないという人でした。
でも、おじいさんの勘右衛門はかなりの道楽者だったようです。
杏花亭が書いているように、ずっとおじいさんになっても吉原(よしわら)や深川(ふかがわ)のあたりでよく遊び、お酒に強く、「荻江一中(おぎえいっちゅう)」などの当時流行っていた音楽(俗曲)にもくわしく、「虚木」というペンネーム(号)で俳句にもかなり夢中になったそうです。
――そんなつながりがあったから「舟仙」びいきになったのでしょう。よほど気に入ったとみえて、主人の仙吉(せんきち)もお屋敷のほうへ機嫌うかがいにたびたびやって来ました。
また、「おつね」という女房なども、季節の魚を持ったりして、台所にひょっこり現れることがめずらしくありませんでした。
悠二郎を「舟仙」にあずけたのは、おじいさんの勘右衛門でした。
お父さんは反対でした。
どう考えても武家の子をあずけるような環境ではありませんし、お母さんのかな女も眉をひそめましたが、おじいさんの虚木老人は、すべてお見通しだという顔をして、こう言いました。
――こいつの顔を見ていると、どうもおれに似た道楽者になりそうじゃ。だから、あえて舟宿なんかへあずけるのも、「毒をもって毒を制す(同じような環境に置いて鍛える)」やり方というもんよ。
こう言ったそうです。
また、あとになってからお嫁さんに向かって――お嫁さんというのはもちろんかな女のことですが――そのお嫁さんに向かってこんなふうに言ったこともあるそうです。
――どうせ次男坊のことだし、つまらない家へ養子に出すくらいなら、本人がよければ船頭(せんどう)にでもなるがいいさ。人間の人生、あれはあれで気楽だし、なかなか粋(いき)ですてきな商売だからな。
おそらくお酒を飲んで機嫌がいいときに言ったものなのでしょうが、それにしてもかなりぶっ飛んだお話で、当時としては相当な自由な考え方の持ち主(自由主義者)だったようです。
――とにかく、悠二郎はこうして「舟仙」にあずけられました。
――あまり大事に扱いすぎてはいかん。たいていのいたずらは怒らないようにし、できるだけ自由に(野放しに)育てなさい。
仙吉とおつねは、虚木老人からそうきびしく言い渡され、その言いつけのとおりに育てました。
乳母(ミルクをあげるお母さん代わりの人)は、葛西(かさい)のほうの農家の女性でした。
――彼は、赤ちゃんのときから成長がものすごく早かったのです。
生後七ヶ月目には、おっぱいにはもう見向きもせず、歯が生える前から平気で固いご飯(強飯)をむしゃむしゃ食べました。
ハイハイするのも、立つのも、歩き出すのも、すべて普通の子よりも三割ほど早かったのです。「こんな赤ん坊、おれは見たこともねえ」
葛西から来た乳母は、いつもこう言っていたそうだ。
「なんだってすばしっこくて、ちっとも目が離せねえんだ。
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