初級翻訳・桑の実 第14話

桑の実

それはまだ奥さんが新しい生活のすべてに慣れていないという点もあったのでしょうけれど、とにかくこれまでが贅沢に暮らしてこられたので、その習慣のせいで余計なところに気を張り、いろいろと無駄なことにもお金を使っていられたようでした。
はじめのうちは、よく実家からお金を出してもらったりして、こっそりと青木さんの手前を取り繕っていられたようなこともあったらしいのです。
しかしそれはそれとして、自分なりに青木さんのために辛いことにも耐えていられたのもまた事実なのでした。どうしても青木さんのやっているようなお仕事では、どうしても収入が不安定になってしまうため、奥さんは引っ越してこられて間もないというのに、自分の持ち物を婆やの手から質屋に入れさせたりして、月末のやりくりをしなければならないようなことも度々ありました。
そういった点については、奥さんのことをあまりよく言わないおかみさんも、ご自分が経験してこられた苦労に比べて、十分に同情していらっしゃいました。
お二人は、はじめの間はもちろんどんな揉め事もなく仲良く暮らしていらっしゃいました。
しかしどういうわけか、奥さんは、ときどき一人で誰もいないところにたたずみ、しばらくの間しくしくと泣き入っていらっしゃるような姿を、お婆やはよく見かけたそうでした。
青木さんが海外留学に行かれたのは、一月にご結婚されたばかりの十二月のことで、出発されるときには奥さんのお腹には今のお坊ちゃんがお宿りになっていました。
奥さんはとある女学校を出られた方で、昔は違うペンネームでちょっとした文章をお書きになっていたこともあったそうですが、青木さんが海外留守の間には――寂しかったからなのでしょうけれど――あちこちに短い作品などを投稿していらっしゃいました。
しかし、世間から一人前の作家として認められるまでには、もちろんまだまだ大きな道のりがありました。
ただ自分が好きで、気晴らしにやっていらっしゃるというだけのことだったのです。
青木さんは、女性がそのようなことをするのはお好きではなかったので、遠く離れた場所から皮肉を言った手紙をよこされました。
奥さんは深い意味もなくやっていたのですが、青木さんからそう言われてからは、ご自分で文章を書くのをやめてしまわれました。
青木さんは、平河さんのおかみさんに対して、自分が西洋へ発ってからというものは、どうも妻が自分に対して冷たくなったようで変だ、ということをお話しに来られたそうでした。
それは奥さんから届いた手紙について、そう感じられたものらしいのです。
そんなことは、日本にいる前から少しは口にされていたこともありました。
あの女はまだ、よく自分のことを理解してくれていない。
自分は妻に対して、ときどきまるで他人と一つ屋根の下に暮らしているような、寂しい気持ちになることがあるけれども、それはどうも女性という気質が、自分に対して少し当たりが冷たいからなのだろうかと、沈み込んでいらっしゃったこともあったそうです。
青木さんは、以前からおかみさんにはどんなことでも包み隠さずお話しされるのでした。
ときには奥さんにこそ相談すべきことを、奥さんには黙ったままおかみさんのほうへ持ち込んで来られることさえありました。
青木さんからそういった愚痴の手紙が届くのに対して、おかみさんはおかみさんなりの温かい返事を送り、間接的に慰めてあげるよりほかに仕方がありませんでした。
青木さんが二年ぶりに海外から帰国なさったときには、奥さんはちょうど体調を崩されて医者にかかっておられ、やつれ果て、青白い顔をして寝ていらっしゃいました。
そこへお坊ちゃんも何かと体が弱かったものですから、家の中はすっかり暗く憂鬱な空気に包まれて迎え入れられたのでした。
奥さんは間もなく、とうとう入院することになりました。
たしか乳房のあたりを切開手術なさったということで、その病気自体はやがて治って退院されたのですが、そこから後がいつまでもヒステリーのようになってしまい、すっかり様子が変わってしまわれたのです。
そのとき、ある日青木さんがおかみさんのところへやって来られて、「あの女は、私の海外留守の間に、だれかほかの男と関係でも持っていたのではないだろうか」といったことを言い出されたのでした。
そう考えてみると、いろんな点で疑わしいところがある、少なくとも自分に対して不自然な隠し立てをするのが怪しいと言って、あれこれと小さな事実を一つずつ並べ立てられたのです。
しかし、変だと言えば変だけれど、ただそれだけの理由ではまさかそんな不貞の推断まではできませんでした。
ただ青木さんは、奥さんが陰気に落ち込んでふらふらしていらっしゃる姿を見るだけでも気が滅入ってしまう性質だったため、そうした些細な出来事の数々が、ますます青木さんをひどく不愉快にさせたのは仕方のないことでした。
それに奥さんも悪いことに、青木さんに対して物事を何でもさっぱりと打ち明けてしまいませんでした。
例えば、病院から退院されて間もないころ、夜中にそっと寝床から抜け出して、いくつかの手紙を火鉢の炭で燃やしていらっしゃったことがありました。
それを青木さんは隣の部屋で、目を覚まして目撃されたのです。
それについて後から「あれは一体どういう手紙だったのか」と尋ねられても、奥さんはどうしてもそのわけを話そうとはされませんでした。
「私だって、どこからでも手紙くらい届くではないか」などと言い返しては、しまいには一人でいつまでもめそめそと泣き続けたりされたそうでした。
それに、青木さんが海外にいらっしゃった間、奥さんはいつも小さなお坊ちゃんを連れてご実家の方に行っていらっしゃったりしたという、ごく当たり前のことまで青木さんに隠そうとされたのも、どこか不自然でおかしなことでした。
それから、奥さんの入院中に、だれかマントを着たまま奥さんのベッドの脇の椅子に腰掛けて話し込んでいったというお見舞いの客のことを、最後まで「実家のお父さんだ」と言い張り通されたことも、青木さんの機嫌をひどく損ねました。
病院の看護婦から聞いていた話と、奥さんの説明とが食い違っていたからです。

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