継母はおくみを今の家(引き取り先)に預けたあと、新しい夫と一緒に台湾へ行ってしまったのでした。このときには上海にいるらしいという話を、育ての母親が赤十字病院の知人から聞いたくらいで、向こうへ行ってからは時々手紙をくれていたものの、二年ほど前からピタッと葉書一枚くれなくなってしまいました。
どうして暮らしているのか、さっぱり分かりません。
育ての母親がそんな昔の事情などを悪く言うのが、おくみにとっては自分の引け目のように感じられて、とてもつらかったのです。
二人はそうやって一年ほど貧しい日々を送っていましたが、育ての母親は仕事も一向になく、おくみが稼ぐお金も、電車賃やそのほかの最低限の生活費を引くと、おくみ一人の食事代をやっとまかなえるくらいのものでした。苦しい生活にうんざりしていた育ての母親は、「おくみさえどこかへ嫁にでも出すことができたら、いっそ自分は大きなお屋敷にお針子として住み込みたいのに」と言い出すようになりました。
そんなわけで、おくみが商会の新聞の求人欄を見て、ある日曜日に訪ねて行ったのが、今のお店のおかみさんのところだったのです。
おかみさんは、そのときはご主人を亡くされて間もない頃で、水道町の小さな家で、装飾美術の手芸を教える看板を掲げていらっしゃいました。
おくみはそこへ女中がわりに住み込むようになり、のんびりとそういった手芸を教えてもらう女の子になったのでした。
育ての母親は、思っていたとおりに、青山の方のある伯爵家にお針子として入り込み、今でもそこで働いています。
こちらのおおかみさんは、おくみの健気な気立てを不憫に思って、まるで自分の本当の子供のように優しくしてくださいました。
その頃は、今のあき子さんがまだ五歳か六歳くらいで、下の男の子はほんの赤ちゃんでした。
おかみさんのところへ仕事を習いに来る人は、多いときでも四人ほどしかいませんでした。
おかみさんは、その人たちに手芸を教えがてら手伝いをさせ、亡くなったご主人の知り合いの画家たちが描いてくれた下図をもとに、西洋風のおしゃれな壁かけや、テーブルクロス、カーテンのようなものを縫い上げて、下町の売店へ売り込みに行っていたのです。
おくみは、坊やが寝ているような暇な時間に、習いに来ていた人たちに混じって、編み物や、子供のエプロン、帽子の作り方などを教わりました。
その頃には、青木さんも時々遊びに来てはおしゃべりしていったものです。
二
おくみはそこを自分の生まれた家のように頼りにしていたのですが、おかみさんはそれから一年も経たないうちに、「この仕事だけではどうしても生活していけない」ということで、いっそ商売の規模を縮小して、千駄木の方へミルクホール(牛乳を主体とした喫茶店)を開くことになったのです。
そして、片手間で内職のレース細工などもなさっていましたが、そっちは大した収入の足しにはなりませんでした。
おくみは店で牛乳を温めたりして手伝いました。
けれど、おかみさんは、「こんな雑用におくみを使っているのでは、最初にお母さんと約束したことにも反してしまうし、おくみが自分の将来のために得るものが何もないから、どこかちゃんとした働き口を紹介してあげたい」と気にかけてくれていました。
おくみのほうでも、「もし何かいい就職先が見つかったらそちらに行くのが安心だろう」と、おかみさんはあれこれ考えて気遣ってくださったのですが、おくみとしては、おかみさんが困っているのをほうっておいて自分だけよそへ出て行く気にはなれなかったし、何より自分自身がこの人のそばから離れたくなかったので、「おかみさんが置いてくださるなら、いつまでもずっと一緒に連れていってください」と、涙ぐみながらお願いしたのでした。
おくみは、そのときはまだ十六歳になったばかりだったのです。ところが、そのミルクホールも少しもはやらなくて、結局一年ほどで店を閉じることになってしまいました。おかみさんは二人の子どもを連れて、仙台の実家へ帰ることになったのです。
自分たちが毎月の生活をやりくりしていくだけなら、どうにかこうにか暮らせないこともなかったのですが、おかみさんは女手一つで育てながら、亡くなったご主人が残した借金も、毎月少しずつ返していかなければなりませんでした。そのため、ちょっとやそっとの収入ではとても追いつかなかったのです。
毎月の利息を払うだけでも大変で、おかみさんはすっかり困ってしまいました。
実家の方の暮らしはそれなりにうまくいっていたそうなのですが、もともとおかみさんは、お父さまたちの反対を押し切って家を飛び出し、前の主人と結婚したのでした。そのため、おかみさんがこうして一人になってしまうまでは、実家の人たちからは勘当された状態で、ずっと絶縁されていたのです。
ミルクホールを始めるときの元手は、お父さとお母さんがこっそり工面してくれたそうですが、家を継いでいるお兄さんは、最後までおかみさんを許してはくれませんでした。
おかみさんが借金取りから逃げるようにして、まさに夜逃げのような形でそんな実家へ帰るというのは、どんなにかつらかったことでしょう。
おくみは、おかみさんの知り合いの計らいで、おかみさんが旅立つのと同時に、とある外国人の家庭へ子守として働きに出ることになりました。そこに七、八ヶ月ほどいたあと、今度は青山にいる育ての母親のつてを頼って、この間まで四年足らずの間、山の手にある外務省勤務の人の大きなお屋敷へ、小間使いとして奉公に上がっていたのです。
育ての母親には、外国人の家にいる間に二年ぶりで再会しました。
これまでも手紙のやり取りはしていましたが、平河さんのお家がミルクホールなどをやっていたことは隠していて、これまで通りおかみさんから手芸を教わっているようなふりを取り繕っていたのです。
外国人の家にいることを打ち明けたときには、育ての母親はとても驚いていました。
平河さんのおかみさんからは、お別れしてからも何度も手紙をいただいていました。
おかみさんは間もなく、二人の小さなお子さんを実家に預けたまま戻ってこられ、とある私立の女学校へ手芸を教えに行ったりしていました。その後でお子さん二人を呼び寄せ、女生徒を預かる素人下宿を開くなど、いろいろと進む道に迷われた末に、ついに今のこのカフェーを開くことにされたのでした。
おくみはこれまでも、おかみさんの家を実家のように頼りにして、時々遊びに来ていました。
女生徒を下宿させていらっしゃったときには、お正月の宿下りの時期に泊めてもらったこともあります。
おくみはお屋敷で奉公している間に、二十歳という年齢になりました。
これからもずっとこうして同じような毎日を送り、他人の家で働き続けるのかと思うと、なんだか先が見えなくて心細い気持ちがしました。けれど、帰ろうにも自分の家はありませんし、何か自分で商売を始めようと言っても、これといった専門の技術や仕事は何一つ身についていません。
女性が身につけるべきお針仕事でさえ――そのお屋敷で少しずつ教えてはもらいましたが――まだようやく基礎をかじった程度で、とても一人前には何にもできなかったのです。
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