おとなしい性格のおくみは、上に立つ女中たちや、あちこちの機嫌にばかり気を配らなければならず、つらくうるさいことがたくさんありました。
けれども、誰かに弱音を吐くこともできず、一人で我慢する以外に方法がなかったのです。
育ての母親には、そんなつらい話はしたくありませんでした。
お屋敷の奥様は、なんだか外国の血を引いている方だとかで、気が短く、ちょっとしたことですぐに機嫌を損ねる人でした。
そのうえ大勢のお子さんたちもいて、本当に働きにくい環境だったのです。
今から振り返ってみると、よくあんなに長い間あそこに耐えていられたものだなあと、自分でも不思議に思うくらいです。
おくみは、自分がつらいと感じるたびに、いつも平河さんのおかみさんの苦労を思い出して比べ、「これでも今のうちは自分のほうがまだ幸せかもしれないな」と思い直すことで、どんなことでもじっと耐えてきたのでした。
そうやって考えてみると、女性という生き物は本当に報われないものだなあと、何だかつまらなく切ない気持ちになるのでした。
今回は、ご主人が政府の組織変更に伴って出世され、外国の大使館へ赴任することになったため、こちらの生活をすっかり引き払って引っ越されることになり、おくみたちも暇をもらうことになったのです。
おくみには帰る場所がないため、平河さんにお願いして、次の身の振り方が決まるまでの当分の間、こうしてまたお世話になっていたのでした。
ここへ来るまでの間までは、おかみさんのお体が少し悪かった上に、下のお子さんがはしかにかかったりもしたので、おくみがここにいることがパズルのピースがピタッとはまるようにとても役に立っていました。でも、今となってはいてもいなくてもどちらでもいいような状態です。
どうせずっとこのお店にいられるわけではないので、何とか自分で道を切り開かなければいけないのですが、育ての母親が言うように、またどこかのお屋敷へ奉公に上がるというのは、もう考えただけで気がふさぎ込んでしまって進みません。
水仕事のような簡単なことでもいいから、とにかくのんびりした職場で過ごしたいという、わがままな気持ちがむくむくと湧いてきてしまうのです。
ミシンを教えてくれる学校があるから、そこに入ろうかとも考えましたが、「それはやめておきなさい」とおおかみさんに止められてしまいました。
今から何か新しいことを始めようとしても、年齢的にもう遅い気がするし、どこにしがみつけばいいのか、頼るべき場所も何もないような心細さでいっぱいなのでした。できることなら、このままこのおうちの一員として認めてもらって、いつまでもおかみさんを頼りにしながら暮らしていけたらいいのに――そんなふうに思ったりもするけれど、自分にはここで役に立つような仕事が何一つない。
お安さんがやっているようなことが自分にもできたら、あんなふうに全くの他人を雇うよりも、おくみが働いたほうがちょうどいいのだろうけれど、お客さんの機嫌に合わせて笑ったり、お相手をしたりすることは、おくみにはとてもできない。もしそんなことをしなければならなくなったとしたら、情けなくて涙が出てしまうだろう。
やっぱり、またどこかへ奉公に上がらなければならないのだろうか。
――
小さいあき子さんと同じ布団に寝ているおくみは、板戸の隙間がほのかに白み始める夜明け方などには、一人でこんなことを考えて、ずっと早い時間から目を覚ましたまま横たわっているのだった。
三
おくみはちょうど今そんなふうに悩んでいた矢先、ちょうどタイミングよく、青木さんのところに代わりのおばあやが必要になったため、新しい人が見つかるまでの間、ちょっと手伝いに行ってあげてくれないかということになった。
とある雨の降る午後、青木さんはいつものようにちょっと寂しげな顔をしてやって来ると、二階へ上がっておかみさんと色々な本音の相談などをされた後、お店のテーブルでお安さんを相手に夕食を食べられた。そして、少しばかりのウイスキーで顔を赤らめながら、ガス灯がともる頃の雨の中を帰って行かれたのだ。
青木さんは、おかみさんとの話が一段落したとき、
「おくみさんは、私のことを覚えていますか?」
と、カウンターで挽肉のハンドルをくるくると回していたおくみに話しかけられた。
「だって、この間もちょっとお目にかかりましたじゃございませんか」
とおくみが笑いながら答えると、
「だけど、私のことなんて忘れてやしないかと思ってさ。――いやあ、実はこの間は、誰だか全然わからなかったんだよ。すっかり見違えちゃったなあ」
と言いながら、おかみさんの目の前にごろりと寝ころがるように腰を下ろされた。
「あなた様は、あの時分と一寸だってお変わりになっていらっしゃいませんよ」
「水道町の頃と? でも、もう四つになる子供の父親だというのにさ」
青木さんはあちらを向いたままそう言いながら、またおかみさんとの会話を続けられた。
「おくみさん、あき子さんを連れて遊びに来ませんか。うちの山羊の乳を飲ませてあげるよ」
「おうちに山羊を飼っていらっしゃるのでございますか?」
「二匹いるよ。二匹もね」
青木さんはそう言い残して、赤い顔のまま帰って行かれた。
黒い長いネクタイを結び切りにして、胸元からだらりと長く垂らしていらっしゃる。そんな風体でいらしゃるのに、少しもけばけばしく見えず、かえって人を引きつけるような不思議な魅力があるように思えた。
なんだか、つつましく寂しげに暮らしていらっしゃるように見える人だった。
おくみは後でおかみさんから、青木さんが去年まで二年ほどフランスに留学していらっしゃったという話を聞いた。
その当時は青木さんのお家の事情など特に聞くこともなかったのだが、その次に青木さんが坊ちゃんを連れて店にやって来られたときのことだ。今いるおばあやが近々息子のところへ帰らなければならなくなり、あとが残されて本当に困っているのだが、どうしたらいいだろうかとおかみさんに相談しているのをおくみは耳にした。話の様子からすると、青木さんは奥様を亡くされたか何かで、おばあやに辞められてしまうと坊ちゃんとたった二人きりになってしまうらしく思われた。
「あなたももう少しのんきなんだから。どうしてこんなに困るまで黙っていらしたんですか?」
「だって、そんなに急いで探さなければならないわけでもないと思ったからさ。『そのうち代わりを探そうよ』と言ったきり、自分も毎日忙しくてつい忘れちゃっていたんだよ」
おかみさんと青木さんの二人で、そんな風にボソボソと話し合っていかれた。
それから数日置いて、青木さんは二度ほど店にやって来られた。
そして昨日のこと、青木さんから「どうにもこうにも困ってしまった」というハガキが届いたのだった。
その晩、おかみさんは何だか非常に困ったような顔でおくみにそのハガキを見せ、「どうにかして、おくみさんにでも当分行って手伝ってあげてもらわなければならないようね……本当に気が毒なんだけれど」と、思いつめたように切り出されたのだった。
おかみさんはそこから、青木さんのお家の事情について詳しく話してくれた。
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