初級翻訳・桑の実 第7話

桑の実

青木さんは小さい方の部屋にある、ツルでできた寝椅子に長々と横たわり、少し開けてあるガラス戸を通して外を見つめていらっしゃいました。
手すりの下には、下の西洋樫の木が、大きな柔らかそうな青葉をきれいに揃えて茂っています。
青い空には低く微かな雲が、まるで迷うようにスーッと消えていきました。
おくみは寝椅子のそばにある物置台へミルクを置きました。
「さっきからそこに小さな鳥が来て鳴いているんだが……。
――もう行ってしまったかな?」と、青木さんはじっとしたままそう言って、耳を澄ませていらっしゃいます。
「いいお天気でございますね」
と言いながら、おくみはそこに立ち止まって、青木さんの足もとの方の壁にかけてある、珍しいタペストリー(壁かけの絵)を眺めていました。
それは女神さまのような一人の西洋の女性が、青い鳥かごの戸を開けて、木の上に住んでいる七羽の赤い小鳥たちを呼び入れているというデザインで、すべてが色の珍しいさまざまな布をパッチワークのように貼り合わせて絵にしてあるものでした。
鳥たちは木を離れて、女性の持っているかごへと下りてきます。
一羽は半分ほど戸口に入りかけています。
女性の足の下には、見たこともない珍しい草の花が咲いています。
一間(約2メートル)ほどの幅がある、とても珍しい装飾品でした。
「ここへ出てご覧なさい。
向こうの森がすっかり見えますよ」
青木さんは、おくみがそうして外を見て立ち止まっていた流れのままに、優しく声をかけられました。
おくみは赤い鳥から目を離しました。
青木さんは体を起こして、ミルクをコップに注ごうとなさいます。
「すみませんでございました」
と、おくみは壺を取ろうと手を伸ばしました。
「いいんです。
僕が自分でやるから」「そうですか? それではまたあとで、ゆっくり見せていただきますからね」
とおくみは、アトリエの部屋をほんの一目見ただけで、大急ぎで階下へとおりていきました。
このお家へ来てから、青木さんにあまり馴れ馴れしくしているように見られては、おばあやんの手前になんだか気恥ずかしく、気をつかってしまうからでした。
「どうぞ、お二人でここで召し上がってくださいな。
何にもなくて、本当にすみませんねえ」
おばあやんは、おくみを目上の人のように扱い、坊っちゃんと二人で先に食べさせようとしました。
「いいんです。どうぞ私の言う通りにしてください。
私は坊っちゃんのお世話をして、あとから一人でゆっくりいただくほうが、あとが片づいてかえっていいんですから」
気立てのいいおばあやんは、安心して「それじゃあね」と頷き、坊っちゃんの襟元にナプキンをはさんであげました。
「なんだか私をお客さま扱いなさるんだもの……」
おくみは困ってしまい、もじもじしていました。
すると坊っちゃんは、ごはんを食べかけて、また歯が痛くなってしまいました。
おばあやんが塩水を含ませた布をあてると、そのしみる痛さに、坊っちゃんは激しく泣き出してしまいました。
食事がすむと、おくみは痛む虫歯のところに、おばあやんに買ってきてもらった「クレオソート」をつけてあげました。そしてやっとの思いで坊っちゃんを泣き寝入りのように眠らせると、ひとりその枕もとに座っていました。
まるで村の片隅のように、あたりがひっそりと静まり返った土の上を、黒くて大きな蟻が一匹、這っていくのが見えました。

六

その晩、青木さんはフランスに行っていた仲間たちの会合に出かけていて、お留守でした。
弟さんは、下ではざわついてうるさいからか、二階のアトリエへ上がって絵の修復(あるいは仕事)をしていらっしゃいました。下ではおばあやんとおくみが、茶の間の四畳半で坊っちゃんの相手をしながら、電灯の光の下に座っていました。
おくみは夕方に荷物の入った行李(こうり)が届いたので、普段着用の手軽な着物に着替えていました。
おばあやんは、明日いよいよ出発する予定だということでした。
「坊っちゃんはもう眠いんでしょうかねえ。
――今夜はここにちゃんとお布団を敷いてあげますから、もうお休みになさいな。
――おくみさん、お手数ですが、このお着物に着替えさせてあげてくださいませんか」
おばあやんは、すぐ隣の四畳半の押し入れを開けて、お布団などを出してきました。
坊っちゃんはお布団に入ると、まるで目がさえてしまったかのように、しばらくははしゃいでいらっしゃいましたが、そのうちにくたびれて、そのままぐっすりとお眠りになりました。
歯が痛む方の片頬が、熱をもっているかのようにぷっくりと膨らんでいました。
「やっとお眠りになりましたよ。
こんなに小さなお子さん一人だけでも、本当に手がかかるんですから、これからしばらくの間は、おくみさんもお気の毒でなりませんねえ」
とおばあやんはホッとしたように言って、長火鉢の前に座り、タバコをふかしました。
「どうもお母さまがおからだの弱いせいか、この小さい子がいつも体のどこかしこを悪くしているんですよ。
赤ちゃんのころなんかは、少しものを召し上がるとすぐに全部もどしてしまっていたものなんです」
どこか地方の訛りが取れない言葉で、おばあやんはあれこれと話し続けました。そんなひよわなお子さんが、お母さまもいないまま、不自由ばかりしながらここまで育ってきたのだから、この子が誰よりもかわいそうでならないのだと言いながら、口を少しだけ開け、長い睫毛のふさふさした目を閉じて眠っている坊っちゃんの寝顔をじっと見守っていました。
「あのお母さまがいなくなってからの最初のうちは、昼も夜もなく『母さまのところへ行く、母さまのところへ行く』って泣いていらっしゃったんですよ。
それがちょうど、旦那さま(青木さん)が長年の不眠症ですごく苦しんでいらしたころでね。
やっとの思いで夜中すぎにどうにかお眠りになられたかなというときに、この子が目をさまして泣き出すものだから、私は本当に身を切られる思いでしたよ。
――どうしようもないから、真ッ暗な夜道なのにこの子をおんぶして裏の方へ連れ出し、みんなが寝静まった夜中にその辺りをずっとおんぶして歩きながら、なだめすかしてね。可哀想で私までオロオロ泣きながら、この裏どなりが空き家だったときの、古い屋根の下にずっと立っていたこともありました。
――まあ、このごろは大分言い聞かせがわかるようになって、『母さま、母さま』って泣き叫ぶのだけはなくなったんですけどね。でも、お体のほうはまだあんなふうにお弱くていらっしゃるものですから。
――私は今度このお家を出るにあたって、このお子様のことが一番気がかりでなりませんよ。
あなたのように優しい方がずっとそばにいて下さるなら、何も言うことはありませんけれど、なかなかそういうわけにもいきませんしね。
――いずれどこからか、新しい奥さまがいらっしゃるにしても、よほど苦労をなさってきた方でなければ、自分の生んだ子のように継子の面倒をちゃんと見てあげることはできないものですからねえ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました