初級翻訳・桑の実 第6話

桑の実

「くみちゃん、せっかくの紅茶が冷たくなっちゃったわね」
おくみはまだ慣れない手つきで、少し冷めかけた紅茶を飲みながら、お二人の話を聞いていました。
青木さんはサンドイッチを一つか二つ召し上がりました。
モデルの女性は赤坂の方から通ってきているのだそうです。
午前中に二時間の約束で雇っているそうで、あと十日くらいは通ってもらわないと困ると青木さんは言っていました。
そんなモデルの給料や、モデルの女性たちの性格なんかについて聞くことは、おくみにとってとても珍しいことでした。
ちょっとした引き受け仕事として、椅子にもたれかかってうたた寝をしている顔を描いているのだと青木さんは言います。
「皆さんにお見せするようなものじゃありませんよ。下手くそな小さな絵です。――あとでご覧になるといい。どういうわけか、こちらへ帰ってきてからは怠ける癖がついてしまって、ちっとも中身のある絵が描けないんです。それに一つは、どうしても心に余裕がないとダメですね。間に合わせの絵ばかり描いているのは、人から悪口を言われるよりも、自分自身がすごく寂しくなる。誰か、ゆっくりと時間をかけて、力を入れた絵を描かせてくれないかなあ」
青木さんは首の後ろに手を組んで、冗談ではないような真面目な口調で言いました。
「そういえば、うちの主人は昔、本当にみじめでしたわね。あの人の絵は、下手くそだったかもしれないけれど……。――どうかして、たった一人になって絵を描いていたいというのが口癖だったんです。そして、いろんな実現しないことばかり言って、いつもイライラしているんですものね。『ダメよあなた、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! 第一今月はどうするつもりなの?』って、私はよくブツブツ文句を言ったものです。お金がないとすっかり元気をなくして、小さくなっている人でしたわね。今でもときどき、目の前にありありと思い出されますよ」
お二人はそれから、亡くなったおかみさんのご主人についての懐かしい思い出話を語り合いました。
「まあ、青木さんはこれからですわよ。こうしてじっくりと取り組んでいるうちに、だんだんとあなたの絵も輝いてきますから」
「どうですかねえ。最近はどうも気が向かないんだ。いろんなことに気持ちがごちゃごちゃ乱れるせいか、ときどき絵なんか描くより、ぼんやり寝転がって空でも眺めている方がよっぽど気持ちがいいなあと思う時がありますよ。一体ぼくは、お気楽すぎる性格なのかな?」
青木さんは、いつものあの寂しそうな微笑みを浮かべました。
「それがいいんですよ。人間はそんなにセカセカ焦ったってダメなんですもの。私なんか、これまでの生き方からすっかり変わってしまいましたよ。もう先の事なんか考えないことにしているんです。下手くそだけどね」
とおかみさんは別の話題に移りました。
「どなたかみえたようですね」
おくみは立ち上がろうとしました。
「いいんですよ、豆腐屋さんでしょう。山羊のエサを持ってきたんです」
「山羊ってお豆腐のカスを食べるんですか?」
とおくみは驚いて尋ねました。
「それに『ふすま』って言って、小麦の皮を粉にしたものを混ぜて食べさせるんですよ」
と青木さんが教えてくれました。おかみさんはそれから、毎日の買い物のことやいろいろなことについて尋ねられました。
目の前の外の日向を、青く光った虫が、まるで青い糸を引くように筋を描いて飛んでいます。
やがて、おばあやんが坊っちゃんを連れて帰ってきました。

五

おかみさんはアトリエ(画室)から下におりて、裏の方へ行って様子をご覧になったりした後、お昼近くになってお帰りになりました。
「では、おばあやんが出発するときには、この人を連れて入っていらっしゃいな。
一通りのことだけしておけば、あとはどうだっていいんだから。
家の中というものは、そんなに何から何まで完璧にしようとしたってキリがないものだからね。
――久男ちゃん、今度はこのお姉ちゃんに連れてきてもらいなさいよね。
そうそう、あそこで電車に乗って、それからまたもう一つ別の電車に乗ってね。
――よくお姉ちゃんの言うことを聞いて、大人しくしていらっしゃるんだよ。
久男ちゃんがワガママを言って困らせたりすると、お姉ちゃんはすぐに泣いておばあちゃんのところへ帰ってしまうからね。
久男ちゃんはさっき、お姉ちゃんが大好きだっていったでしょ?」
おかみさんは日傘をさした片手で、耳のそばの後れ毛が下がってくるのを気にしながら、ゆっくりと歩いてお帰りになりました。
おくみは小さな久男ちゃんの手を引いて、さきほど通ってきた、白い西洋館の先まで見送りにいきました。
「ただ、水道がないのがちょっと困るわね。
お風呂だけは青木さんの弟さんが水を汲み込んでくれるとは言ったけどさ」
おかみさんは別れる間際まで、あれこれと言い足しながら去ってい行かれました。
お母さまのいらっしゃらない小さな坊っちゃんは、もうおくみによく慣れて、人懐っこそうに手をぎゅっと掴んでついておいでになります。
向こうの電車の音が、あたりにある青々とした木立のなかをガタゴトと響いて聞こえます。
あとから水色に塗られたクリーニング屋さん(洗濯屋)の車がやって来ました。
おくみは、おかみさんが歩いて行かれたあとを、しまいにもう一度振り返りました。
ずっと昔に千駄木のお家から外国人のところへ行ったときに、寒い雨がしとしかと降る中を、おかみさんが小さな子どもをおんぶして車屋さんまでついて来てくださったことなどが、どういうわけかふと思い出されました。
あのときには、おくみは生みの母と別れるように悲しくて、馬車のホロの中でしくしくと泣きながら行ったものです。
おくみは、そのときまだ子どもだった自分が、おかみさんに仕立ててもらった普段着を古着にしたものに、赤い色繻子(しゅす)の帯を締めて、あのお家を出ていった姿がありありと目に浮かびました。
あれからだっていろんな苦労を重ねてこられたおかみさんも、なんだかとても悲しい人のように思われました。
「おや、下駄が脱げてしまいましたの? 早くおきなさい。
――まあ、坊っちゃんはお手がすっかり汚れていらっしゃるんですね」
坊っちゃんには、白地に赤い筋が雨の糸のように這い入った、厚手の浴衣のような木綿の着物が、五月の気候に合わせて着せてありました。
目もとだけは青木さんに似ていらっしゃるようだけれど、あとはすっかりお母さまに似ていらっしゃるようです。
ちょっとひよわで、どこか物静かな、沈んだ感じのお子さんです。
片方の人の指を口にくわえながら、とぼとぼとお帰りになります。
青木さんは台所の流しの前にしゃがみ込んで、バケツに入った山羊のエサの豆腐ガラに、塩を振って混ぜていらっしゃいました。
坊っちゃんはおくみの手を引っ張って、格子戸の方から上がろうとなさいます。
間もなくお昼になりました。
青木さんはサンドイッチを食べたから、お昼はミルクだけでいいと言われたそうで、おくみはおばあやんが生温かくして壺に入れたものを、コップと一緒に盆にのせて二階へ持って上がりました。

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