初級翻訳・桑の実 第5話

桑の実

おくみはなんとなく青木さんの家を、ただ広々としているだけで陰気な、寂れた家のように想像してきましたが、それとは違って、こぢんまりとした、建って間もない明るくきれいな家なので、ホッとするような気がしました。
おかみさんが入口の格子戸のベルを押すと、障子のすぐ裏手に続いているらしい階段から、どなたか降りてくる足音がしました。
すると、取次に出てきたのは十八、九歳くらいの、ハイカラな束髪(そくはつ)の女性でした。
派手なメレンスの帯を締めていて、ちょうど店のお安さんのような、人慣れた様子が感じられました。
「ご主人はいらっしゃいますか? 平河から参りましたが」とおかみさんがおっしゃいます。
「どうぞ」と言って、格子戸の鍵を開けてくれます。
続いて、青木さんが気配を察して降りていらっしゃいました。
「さあ、お上がりください。今日は仕事を休んで待っていたんですよ。――林さん、こちらにしよう。そこをきちんと片付けてください」
青木さんは階下の部屋に通すように、その女性にそうおっしゃいました。
「おばあやさんはどこかへ行ったんですか?」
「ええ、子供を連れてちょっとそこまで使いに。――今のはモデルの女なんです」と青木さんは小さな声でおっしゃいます。
「私はこんな変な格好をして迎えてしまいましたがね。――くみちゃん、こっちへいらっしゃい」
おくみはハンケチ包みをその辺りにそっと置いて、お二人の後ろから襖の内側へと入っていきました。
そこは六畳ほどのきれいな一間で、大きな鏡のついた西洋風の化粧台の上に、赤い西洋の花が一つの小さな青い壺にまとめて挿してあり、それが鏡に映っているのが一番におくみの目にとまりました。
足もとには、もも色で十字型に模様を出した敷物が一枚敷いてありました。
低くて小さな台にかけた、変わった縫い取りのあるテーブルクロスを挟んで、青木さんが考案したらしい質素な椅子が二つ置いてありました。
「おくみさん、ここにおかけなさい。私の椅子はこちらにあるから」と向こうの椅子を持って入ってこられて、「どうもお忙しいところをわざわざ」とおかみさんにお礼をおっしゃいます。
「いいえ。いつも午前中は何の用事もないんですもの。ただ、くみちゃんに少し申し訳ない気がするだけよ。――ねえ」と、おかみさんはくつろいだ様子で冗談のように言われます。
「私は何にもできないものですから」とおくみはまぶしそうにこれだけ言いました。
「どうぞ少しの間、面倒を見てやってください。のんきな家だから何でもないですよ。――おばあやさんはもう昨夜からトランクを出してゴソゴソやっていますよ」とおくみとおかみさんのお二人へ、順々にそうおっしゃいます。
「いつ発つんですか?」
「一日にでも早く発ちたいんでしょうよ。年寄りのくせに気がいらいらする女ですからね」
「誰でも年をとった人は、こうだと言い出したらきかないものよ。――坊っちゃんはあれからいかがですか?」
「ええ、相変わらずです。昨夜から少し虫歯が痛いと言ってシクシク泣いているんですよ。どうも私のようなものは、子供なんて全く荷厄介で……」
「そりゃあ無理もありませんわ。今日までだってよくやっておいでになったようなものですからね」
おくみは一人で外の方を見ていました。
「どうして子供なんてものが生まれるのかな。余計なことだと思うんだけど」と、青木さんは箱の巻きたばこを取り出して火をお付けになります。
「全くね」と、おかみさんは口もとで笑いながら、「あなた、どうぞお構いなさらないで下さいましね。お客さまじゃないんですから」と、先ほどの女性にそうおっしゃいました。
その女性が銀色の盆に紅茶を持ってきたのでした。
「これは家の山羊の乳ですよ」とおくみに言いながら、青木さんは、使い込まれた黒ずんだ色の、変わった面白い小さな壺から、三人の紅茶へ乳を注ぎ入れます。
「冷めないうちに召し上がりなさいな」
おかみさんと青木さんお二人はスプーンを取ってそれを飲みながら話をされました。
おくみは気を利かせて、お土産をそこに出すつもりで席を立ちました。
先ほどの三畳間に出てハンケチ包みを取り、次の間を覗くと、そこにはモデルの女性が、することもない様子で障子のところにぽつんと座って、新聞を拾い読みしていました。
外の土の上には小さな花壇が作られていて、赤いゼラニウムやその他の花の色が目立っていました。
「どうぞこちらへいらっしゃいませ」と女性は愛想よく迎えて新聞を片付けました。
そこは青木さんの弟さんの部屋にしてあると見えて、青いラシャの布がかけられた一閑張(いっかんばり)の机の上に、英語の辞書やインキ壺などが置いてありました。
おくみはこの女性に頼んで、お菓子鉢にするものを出してもらいました。
向こうには、茶の間の四畳半と、台所と、お風呂場と、もう一部屋ついているらしかったです。
どこもきちんと片付けられてこぢんまりとしていました。四畳半の部屋には、小さな坊っちゃんの、紐のついた可愛らしい着物が柱の釘にかけられていました。
女性は少し慣れない様子であちこちの押し入れを開けたりしながら、そこにあった西洋皿を一枚出してくれました。
「ええ、これで結構でございます」
とお礼を言って、おくみはハンカチから、パセリを添えたサンドイッチを取り出してそのお皿に盛り付けました。包んでいたナプキン紙には、親切に妻楊枝までついていました。
「林さんという方をここに呼んでお上げなさいよ」
とおかみさんが青木さんに言いました。
女性は何か用事かと思って部屋に入ってきましたが、
「いえ、私はもうたくさんでございます。このあと帰る途中でちょっと用事を済ませていくところがありますので、これで失礼いたします」
と言いました。
「そうですか。もう少しいていったらいいでしょう?――では悪いけど、二階のテーブルの上にある手紙をポストへ入れてくれませんか。明日は必ず来てくださいね」
青木さんは灰皿でタバコを消しながらそう言いました。
女性はトコトコと二階へ上がっていきました。
おくみは送り出そうと三畳の部屋のところに立っていました。
女性は手紙を懐(ふところ)にはさみ、帯揚げを結び直しながら降りてきました。
「何かお忘れ物でも?」
「いいえ、ちょっと」
と、林さんは次の間にスッと入ると、そちらを向きながら立ち止まり、手鏡を取り出して、ポケット用の白粉(おしろい)でちょこちょこと顔を直してからこちらへ出てきました。
「さようなら。――どうぞこれからよろしくお願いいたします」
「私こそどうぞよろしく」
とおくみは言い遅れたようにそう言って、階段の降り口にペコリと膝をつきました。
「これから外はだんだん暑くなりますね」
「だんだんイヤになってまいりますわ。どうぞあなた、あちらへお戻りになってくださいまし。失礼いたしました」
林さんはさっぱりとした挨拶をして、格子戸をピシャリと閉めました。
お直しした着物の、生地の色が変わってしまっているところが少し見えていたりして、なんだかわからず屋でかわいそうだなと感じたのか、おくみはそれを見ないようにしようと自然に思っていました。
その間に、青木さんはおかみさんに、今の女性について話をしていました。

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