初級翻訳・桑の実 第12話

桑の実

「もう寝たの? これがいるからには、おくみさんも気苦労や世話がいろいろあって大変だね」
青木さんは、話し相手でも欲しくなったかのように、二階からのそのそと降りていらして、しばらくそこにしゃがみ込んでタバコをふかしたりしました。
「なんだかおばあさんなんかがいなくなってから、家の中がからりとしたような気がしますよ。あのおばあさんには随分役に立ってもらったけれど、どうもときどき頑固を張るものでね。――なんでも自分の思う通りにできないと、ぶつぶつ文句を言ってふくれるおばあさんだからさ」
こんなことを、人の悪口というほどでもなくお話しになりながら、膝頭を抱えて柱にもたれかかっていらっしゃいます。
「ちょっとあちらの灰皿を取ってまいりましょうか」
「いや、もうすぐ帰るからいいよ、たくさん」
「すぐそこにございますから」
おくみはそれ取ってきて再び座り、これといって話すこともないので目を伏せ、着物の裾を自分のつま先でそっとこすっていました。
「本当に、すっかり静かになりましたですね」
「一人でじっとしてると寂しいだろう?」
「いいえ、そんなにも思わないでございます。私はもともと陰気な人間なんでしょうね。こういうしんとした静けさが好きなんです」
顔を動かすと、畳と壁とに大きく広がって映っている影法師も、それに合わせて軽く揺れました。
「夜になると、電車の音が随分近くに聞こえますこと」
洗吉さんが外から帰って入ってこられました。
「おくみさんへ絵葉書が来たよ」と仰います。
近所のお安さんから送られてきたものでした。
二つ巴(ふたつともえ)の家紋が入った※※に、大小の刀を差した、まだあどけない子供役者の写真姿で、市村座五月狂言、力弥何々と役者の名前が赤く刷ってあります。
「これはお客さまからいただいたのです。お近くにお遊びにいらっしゃいませ。おかみさんもお待ちになっていらっしゃいます。青木さんによろしく」と、葉書の裏に鉛筆でがさつと書いてあります。
「お安さんからあなたさまによろしくと書いてございます」と言いながら、おくみは青木さんに裏の写真を見せました。
「だれかやってきたよ」と、青木さんはそれを下に置いて、玄関の戸口の方に耳を傾けました。
ベルが鳴ります。
「はい」と、おくみは立ち上がって出ていき、上り口の電灯のスイッチをひねりました。
「青木さんはいますか?」と格子戸の外から声がします。
「どなた様でいらっしゃいますか?」と言いながら、おくみは格子戸を開けに下りていきました。
「やあ、どうぞ」と、青木さんが出て迎えてくださいました。
ネルの単衣(ひとえ)を着てステッキをお持ちになった、髭のある背の高い方が入ってこられました。
「二階に灯りが見えていたからまだ大丈夫だと思ったけど、何か取り込み中じゃなかったのかい?」
「いや、家の者ばかりだ。さっきから下に降りてぼんやりしていたところさ」
そう仰りながらお二人とも二階へ上がっていかれます。
おくみがあとからお客さまの座布団を持って上がると、青木さんが上り口まで取りに来てくださいました。
「すまないが、戸棚の葡萄酒(ぶどうしゅ)を持ってきてくれ給え。小さいグラスを二つね」
おくみはやがてそれを銀色の盆に載せて、ゆっくりと上に持っていきました。
平たい小瓶には、お酒はあまりたくさんも残っていませんでした。
こちらにごろりと横になって、あたりの書物を見ていらしたお客さまは、おくみが次の間に座ってお辞儀をするのを見て、姿勢をまっすぐに直されました。
ふすまの根元に置いてある本棚のそばに、白い大きな壺にポピー(雛芥子)の花がたくさん束ねられて生けてあるのが、電機の光の中に赤く目立って見えました。
おくみはそのまま下に下りてきました。
さっきからどんな方なのかよく顔を見ないままでした。
おくみは上り口に脱ぎ捨てられていた、その方のつばの小さい柔らかい帽子を拾って、帽子かけに掛けました。
洗吉さんは六畳の部屋の机の前に座って、インク壺の口にこびりついたインクを紙できれいに拭き取っていらっしゃいます。
「これからお勉強でございますか」と、おくみはあとから、衣桁(いこう)にかけてあった袴(はかま)を下ろして丁寧に畳みました。「今晩は少し歩き過ぎたからくたくたに疲れてしまったよ」
と、お客さまは仰いました。
「どちらまでお出かけになっていらしたんですか?」
「ずっとこっちの方をぐるっと回って、あそこの映画館の前まで行ってきたんだよ。今晩はあの辺りの縁日で、いろんなお店が出ていてね」
「そうでございますか。私はどうも方向音痴と言いますか、この辺りは少しも存じないものでございますから」
「あ、さっきの絵葉書を見せてくれるかい?」
「あそこにございます」
とおくみは立って持ってきました。
洗吉さんは半分おくみの方を向き、膝を崩して座りながら、
「これはいい役者かい?」
とお尋ねになります。
「どうでございますでしょう。私はお芝居のことはまったく分からないのでございますけれど、それはずいぶん可愛らしいお子さんでございますね」
おくみは少し離れたところに座り、片手を畳につきながらこう言いました。
「ご実家には、あなたさまのご兄弟はもういらっしゃらないのでございますか?」
「弟がまだ一人いるんだよ。いたずらっ子で母が手を焼いているんだ」
「でも、男のご兄弟ばかりが三人もお揃いになっていらっしゃって、素晴らしいですね」
「だって、下の二人はまだ将来どうなるか分からないからね」
洗吉さんは絵葉書を丸めて眼鏡のように覗き込み、向こうの壁などを眺めていらっしゃいました。
おくみはしばらくそのままそこに座り、落ちていた糸くずを爪先でいじりながら、そんなお話をしていたのでした。

十

おくみはお安さんから葉書が届いた翌々日、青木さんにその旨を伝えて少し早めのお昼をいただき、坊ちゃんを連れてちょっとお店に行かせてもらいました。
これといった用事があるわけでもありませんでしたが、一度顔を出さないとなんだか落ち着かないような気がしたからでした。
行けば、行李(こうり)の中から取り出してきたいものもあったのです。
「まあ、すっかりハイカラにおなりになったこと! 家では毎日お噂してたのよ。――おかみさんは今ちょっとお風呂に行っているの。もうすぐ帰っていらっしゃると思うけれど」
お安さんはもう一人の女中さんと二人で、周りの腰板を拭いているところでした。
「この間からちょっとお店に顔を出したいと思っても、一人だからなかなか出られないんでしょう? ――どうぞついでに片づけを手伝ってちょうだいよ」
「もうすっかり済ませたんです。きれいになったでしょう? さっきからそこいらの引き出しの金具まで、すっかりピカピカに磨いちゃったところなの」
坊ちゃんは喉が渇いたのか、お水が飲みたいと仰いました。
「じゃあ、ちょっと待っていてくださいますよ。――帽子の紐が取れちゃったの? ――お姉ちゃんがつけてあげるからね。どうもすみません」
おくみはそう言いながら、コップを持って奥へ白い砂糖を取りに上がりました。
「何なんですか、家でもよくお水を召し上がるんですよ。

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