「そうでございますか。
でも行李の方が手軽で便利でございますね。」
「いいえね、奥さんが持っていらっしゃったのを何もかも返しておしまいになったもんですからね。
――旦那に、悪いのでもいいから是非一つお買いなさいと言ったんですけど。
――行李では物を一つ出し入れするのにも癇に障りでね。
それに着物も傷むし。」
ばあやは四畳の押入れの前に立ってこんな事を言った。
「あそこいらに坊ちゃんの人声がしていますわ。」
「そうですか。
私行って呼んで来よう。」私が帰るなんてことを何も知らないでいらっしゃるけれど、どうせだからそう言って聞かせてあげようかしら。
ばあやはこう言って、坊ちゃんの着物などがいろいろ入っている行李を取り出した。
四時を少し回ったころに車がやってきた。
ばあやが涙ぐみながら行李を積み込んで乗っていくのを、坊ちゃんは「どこへ行くんだ、どこへ行くんだ」と尋ねられた。
さきほど青木さんから「ばあやはもう遠くへ帰ってしまうんだよ」と言われていたのを、坊ちゃんは嘘だと思って信じられなかったのだ。
駅へは、青木さんと洗吉(あらいきち)さんが見送りに行かれた。
おくみは坊ちゃんを連れて門口で見送った。
「さあ、こちらへいらして、さようならをなさいますよ。危ういですよ、そんなところへお行きになっては」と、おくみは、坊ちゃんが車の背中の漆塗りに自分の顔を映して遊んでいるのを、こちらへ引き離した。
ばあやは目をショボショボさせながら、何度も何度も後ろを振り返った。
九
おくみは物を取りに四畳の間へ行ったとき、そこの柱に、忘れられたかのようにかかっている日めくりカレンダーが、いつまでも同じ日付を示したままになっているのを見つけて、きれいにそれを剥ぎ取ってきた。
ばあやが行ってしまってから、おくみが一人になってからというもの、ちょうど一週間がそわそわと過ぎ去っていった。
おくみは一人でこつこつと、自分にできる限りのことをやり通した。
手が空かないときなどは洗吉さんが使い走りなどもしてくださるし、青木さんも二階の掃き掃除などを自分でしてくださるので、どんなに助かっていることか。
たいていのものは向こうから売りに来てくれるので、おくみはわざわざ外へ買いに出かける手間が省けた。
洗濯石鹸やマッチや元結(もとゆい)のようなものまで、座っていながら用が足りた。
それに、みなさんがおくみのやる事に対してなんでも辛抱して大目に見てくださるので、おくみは考えていたほど一人でまごつくこともなく、どうにかこうにかやっていくことができた。
ただ困ることは、これまであまり料理をしつけてこなかったので、煮物の味付け加減などが不安だったことだ。
その日その日のおかずの組み合わせにも気を遣った。
「どうも遅くなりました。もう電気が点(つ)いておりますでしょうね。なんだかまごついてばかりいまして」
おくみは額に汗をにじませ、袂(たもと)をくわえながら、下手なりに飾りつけたお皿をちゃぶ台の上に並べた。
「お加減はいかがでございましょう。召し上がられますかどうか」と、不慣れな様子で座った。
一昨日は平河さんのおかみさんが様子を見に来て下さった。
おくみは、落ち着いたら一度坊ちゃんを連れて出かけるつもりでいたのだが、なにかとバタバタして出られずにいた。
青山の養母へ、ここにきていることを知らせる手紙を書くのも、まだそのままにしているような状態だった。
おかみさんは、ものの煮方などについてあれこれと教えていって下さった。
おくみは夜、茶の間の電気を低く下げて、お小遣い帳をつけたあと、おかみさんが教えてくれたことを思い出して、翌日のおかずの支度をノートに書き留めてみた。
お小遣いは、お風呂を沸かさない日に坊ちゃんを連れて外湯へ行ったりする以外には、おくみの手で使うお金がほとんどないような日もあった。
「それは何かと気を配るばかりでもくたびれるでしょう? もう少しの間だから、もうひと頑張り辛抱していてちょうだいね。そのうちにはだんだん慣れてもくるだろうしね」と、おかみさんは気遣って下さった。
「でも、皆さんが心よくしてくださいますから、少しも気が休まらないということはなくて、のんびりと用事をさせていただいておりますんですよ。ただ、私がなにかと要領の悪い人間なものですから……」と、おくみはただ、みんなに対して申し訳ないような気持ちでそう言った。
「青木さんは、『今も、おくみさんをいつまで借りていられるんですか』って聞いてくるのよ。まあ、せいぜい早く次の代わりの人を見つけなければ、あの子(坊ちゃん)もこれから行くところがあるだろうからって伝えておいたけど、あの人はこういうことには少しのんきだし、そのうえ割と知り合いが少ない方だから、私があちこち当たってみて、そのうちにどうにかするわね。とにかく、それまでの間よ」と、おかみさんは裏のトウモロコシ畑のところに立ってそうおっしゃった。
おくみはそれから、坊ちゃんについての話をしたりした。
坊ちゃんはなんでもよく言い聞かせのきくお利口なお子さんで、少しもわがままを言わないので、おくみもとてもお世話がしやすかった。
最初の二、三日の間は、ときどき退屈してくると、寂しそうな顔をして「ばあやはまだ帰らないのか」と尋ねながら、自分の着物の裾を噛んでぽつんと立っているようなこともあったけれど、だんだんとおくみと二人きりであることにも慣れ、機嫌よく外へ出て遊んでくるようになった。
おくみがお昼ご飯などに呼びに行くと、坊ちゃんは向かいのお家の門の中で、紙で作った帽子などを被せられて、そこの家のお子さんと同じくらいの小さな女の子と二人で並ばされているのだった。
その女の子のお兄さんらしい六つばかりのお子さんが、まるで大将のように二人を率いていた。
そのお家は、ちょっとした洋間などもついた、上品なお家であった。家にいるとき、坊ちゃんはおくみが動く方へついて回って、おくみのすることをじっと立って見ながら、おとなしく遊んでいました。
「さあ、それじゃあまいりましょう。坊ちゃんには何を買って差し上げましょうね。――おや、金魚ですか? お湯屋の前に? ですけれど、お父さまがお叱りになりはしませんかしら」
二階で静かに絵が描かれていく青い午前中などに、おくみは家じゅうの戸をピシャリと閉め切って、白い日傘をさし、坊ちゃんの手を引いて、駅の近くの通りまで、髪(すき毛)を買うためになど出かけました。
髪がほどけてしまったので一度すっかり解いて、この間からいわゆる西洋髪(はいからな髪型)にしているのでした。
おくみはもうずいぶん長い間、こんな髪型を結ったことはありませんでした。
通りを歩くと、店のガラスなどに自分の姿が映るのを、おくみはなんだか見慣れない自分のようだなと思いながら通り過ぎました。
おくみは自分の小遣いで、坊ちゃんに欲しいものを買ってあげました。
夜になると、坊ちゃんが寝ている枕もとに、三匹の小さな金魚が入ったガラスの瓶が、電機の光を受けて、赤い金魚の姿を大きく映し出していました。
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