初級翻訳・桑の実 第10話

桑の実

そんなに頬張ってはちゃんとお話しできないよ」
「お姉ちゃんも好き」と坊ちゃんがおっしゃる。
「も好きか」
「どっちも好きでございますって」と、おくみは微笑みながら、坊ちゃんの膝の上にこぼれたパンの屑を拾った。
「おくみさんは絵はお好きですか。
――もっとも近頃は極端ないたずらのよな絵も出ますけれどね。
――あとで二階へ上がって私の描いたのを見て下さい。
一二枚くらいは出来の良いものもあるから」と、青木さんはおくみに話しかけられる。
おくみはどう言っていいのか、自分がちゃんとした一人前の大人の女性かのように話しかけられるのが、何だか気恥ずかしいようだった。
「私は何も分かりませんのでございますから」とおくみは顔を赤らめた。
ばあやは小さいお皿にお漬物を入れて持ってきた。
「おくみさん、遠慮しないでたくさん召し上がれよ。
お乳はまだお代わりが温めてあるんですよ」
おくみはなんだか最後までもじもじするような心地がしていた。
ご飯が済んでから、ばあやはあたりを掃き始めた。
おくみもタスキをかけてバケツの水を替えるために下りた。
そうしているうちに、モデルの林さんが今日は一段とめかしてやって来た。
こちらへ入ってくると、六畳間で土偶(どぐう)の人形をお相撲のように並べて足を投げ出して遊んでいる坊ちゃんを、後ろから手で目隠しした。
林さんはまもなく画室へ上がった。
ばあやも、やがてそこそこに身支度をして出かけた。
「あのね、おくみさん。
私は旦那様に黙って出かけるんですからね、もしあとでお聞きになったら、ちょっと自分の買い物に四谷あたりまで出かけたんだって、ただそう言っといてくださいな。
大抵お昼に間に合うように帰ってきますから」と、坊ちゃんのいらっしゃらない場所へ立って、小さな声でそう言った。
「坊ちゃん、ばあやが素敵なお土産を買ってきてあげるから、おとなしくしてお姉ちゃんと遊んでいらっしゃいね、ね」
ばあやはどこか、青木さんに言うと面倒になるようなところへ、こっそりと出かけてくるらしかった。
二階では林さんが座って、絵が描かれていくようだった。
坊ちゃんは格子戸の外までばあやについて出て、ガラス灯の柱の下で一人で遊んでいらっしゃる。
おくみは坊ちゃんの寝間着の袖口がほころびていたのをさっそく縫っておいたが、もうあたりはどこも片付いてしまって、差し当たり何もすることがないので、しばらく六畳間で新聞を広げて拾い読みなどしていた。
自分一人が留守番でもしているような、しんとした家の中では、外の青葉が畳に明るい青い影を落としている中、茶の間で置き時計が秒を刻んでいく音が際立って大きく聞こえた。
おくみは紙面の写真や、その日の九星占いなどを見ていたが、ふと思い出して新聞を畳み、座敷の押し入れへ行って、青木さんの枕カバーがだいぶ汚れているのを外して井戸端へ持っていった。
「坊ちゃん、待っていらっしゃいませよ。
今すぐこれを洗ってしまいますからね」「あのさつきの人形のお相撲はどうなさいまして?」
小さい人は、台所にあった古ぼけた大きな下駄を履いて、相手がいなさそうに、おくみが石鹸の泡を立てている手許へ来て立っていらっしゃる。
「あそこへ行って山羊を見ていらっしゃいまし。
二つとも棚の上へ上がってあんな事をしているでしょう。
おかしな山羊ですこと。」
ぶらんこの側の物干綱へ、洗った物をかけて置いて、坊ちゃんを連れてこちらへ帰ってくると、八百屋が御用を聞きに来た。
何を取っておいていいか分からないから帰した。
すぐ近くだと言うから、あとでだれかが行ってもいいと思った。
おくみは坊ちゃんの手を引いて、何かの広宣屋が太鼓を叩いて触れ歩いているのを見に出たりした。
やがて家へ入って、坊ちゃんのお相手をしながら、昨夜の編み物を出して編んだ。
坊ちゃんは壁に足を投げかけて、仰向けにお転がりになったまま、物差しを持って畳を撫でていらっしゃる。
そうこうしている内に、いつしか十一時過ぎになった。
モデルの女の人は日課を済まして帰って行った。
肉屋が挽肉を持って来た。
坊ちゃんは二階の梯子段を上ったり下ったりして動き回っていられたが、一人で飽き飽きして何かくれろとお言いいになる。
おくみは鼠入らずを開けて、いろんな罐や蓋物などを開けて見た。
朝が早いから、もうお腹がすいたのだろうけれど、ばあやは一向に帰って来なかった。
おくみはさっきから度々時計を見た。
もう五分ばかりで十二時になる。
棚の笊に馬鈴薯の買い置きがあるので、それをあしらって、さっきの牛肉を煮て先にお昼にしようかとも考えた。
青木さんが退屈なさったようにとことこ二階を下りていらっしゃった。
ばあやはやっと、おくみがお昼の後片付けをしているところへ、気を急いた様子で帰って来た。
「お昼にはおまごつきになったでしょうね。
どうもすみませんでございました。
つい話が長くなったものですから。
――どうぞそれはそうしといて下さい。
私がしますから。」と言いつつ、汗ばんだ顔をして帯を解く。
「実はね、旦那に内証で一寸奥さんのところへお暇乞いに行ってきたんですよ。
あの方には随分よくして戴いたんですからね。」と、ばあやは人に隠し事をしている風ではなく、ひそやかにおくみにこう言って、押入れから普段の着物を出したが、
「いっそもうこの儘にしていましょうよ。
ぢき汽車の時間が来ますから。」と言いながら、手拭いで顔を拭いた。
青木さんは坊ちゃんを連れて裏の原へ出ていられるのであった。
「旦那が何とか仰いましたですか。」
「いいえ、青木さんはただどこかへ行ったのかつて仰っただけで、他に何にも仰りやしません。
ただ、今日立つと言ったけどどうする積りでゐるのかしらと仰っていらっしゃいました。
――ではどうしても五時のでお立ちになるんですか?」
おくみは濡れた手を拭いてこちらへ来た。
ばあやは留守の間の坊ちゃんの事をも尋ねた。
「私は今も奥さんといろいろ坊ちゃんの話をして来たんですよ。
奥さんが始めから終いまであのお子さんの事を言ってお泣きになるんでせう。
どうかして出来る事なら自分で連れていたいと言われるんですけれど、あれはこちらの後妻の子だからそういふ訳にも行かないしね。
――どうも仕方がないんですよ。」と、ばあやはお土産に何か買って来た小さい袋をそこへ出した。
「それから、私が今日奥さんのところへお訪ねしたっていうことは、平河さんのおかみさんにも黙ってて下さいよ。
それが伝わって青木さんの耳へ入りでもすると困りますから。」
「ええ、私は何にも言いませんから安心していらっしゃって下さい。」と、おくみはすべての訳は分からないけれど、そう言って請け合った。
ばあやは新聞紙の包みを開けて、坊ちゃんのお召しになる、銘仙絣の単衣が一枚と、柄のいい真岡の浴衣とがちゃんと言い仕立ててあるのを出して、これはこないだ近々にお暇乞いに行くという手紙を出して置いてあったので、奥さんが内証でこしらえといて渡されたのだから、もとからちゃんと言いあったような風にして行李へ入れといてくれと言っておくみに頼んだ。
「あなたは、この家中に箪笥というものが一本もないのを変にお思いでしょう?」とばあやは軽く笑いながら言う。

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