初級翻訳・桑の実 第9話

桑の実

寝ぐせを直すお湯を少し取ってあげますからね」
「いいえ、そんなの結構ですよばあやさん、私はいつもただこうやって手ぐしで済ませるんですから」
「そうですか? それならいいけれど、遠慮することはないんですよ」
おくみは髪をかき上げるくしで洗面器の水をつけて、柱の鏡を覗き込みながら髪をサッととかした。
ばあやは、表の門を開けて、裏手の草っぱらのほうへでも回って、青々とした景色を見ていらっしゃい、と言ってくれる。
おくみはゆっくりと玄関を開けて自分の下駄を履き、表の門を開けに行った。
そのあたりもすっかりきれいに掃かれていて、敷石には水まで打ってある。
郵便受けの中に手を入れてみたが、まだ新聞も来ていなかった。
向かいの家のガラス灯には、夜の名残の灯りが白っぽくぽつんと点いていた。
早くから動き出すらしい電車の警笛が、すぐ間近の、手に取るようにはっきりと聞こえて通り過ぎていった。
おくみは特にすることもなかったので、ばあやが「いいよ」と言つのを無理にお願いして箒(ほうき)を出してもらい、中庭のほうを掃きに行った。
物置の横手から回っていくと、裏の山羊がもう目を覚まして小屋から出ているのが見えた。
裏にはちょっとした空間があって、山羊のいる場所と小さな畑が作られている。
畳二、三枚分くらいの広さに青々と生えている芝生には、ベンチやブランコも作られていた。
山羊は、左側の隅を五坪ほどの低い柵で囲って、その中に二匹飼われている。
柵の中にはシュロの木が五、六本植えられていて、その下に山羊が入る小さな小屋が作られていた。
片方には、一間(約1.8メートル)に一間半ほどの棚が四、五尺(約1.2〜1.5メートル)ほどの高さで作られていて、両方からそこに上り下りできるように板がかけられている。
白い体をした首の長い山羊は、大きな赤い乳房をだらりと垂らしていて、一匹は柵の柱に頭をスリスリとこすりつけてイタズラをしている。
もう一匹は、おくみがこちらにじっと立っているのを見つけると、柵のそばまで歩いてきて、顔をひょいと出してじっとこちらを見つめているのだった。
柵の横手の畑は、半分が草花の苗床になっていて、黒くて柔らかい土に、いろんな植物が植えられている。
こちらにはトウモロコシとツルマメが育てられている。
後ろに立っている栗の木の青葉の間には、甘い匂いのする栗の花がうす黄色に咲いている。
それらの景色すべてが、まだ日の出前の静かな朝の空気の中で、青い眠りからさめたかのようにしっとりと落ち着いている。
生垣の外の草地には、すぐ近くまで朝もやが下りてきている。
あちこちに白いノイバラの花がちらほらと見えていた。
おくみはくぐり戸を開けてこちらの庭に入った。
雨戸が閉まっている六畳間の前の、色とりどりの草花を見て、パッと目が覚めるような気持ちがした。
おくみは座敷のほうの片隅から順番に掃いていった。
手水鉢(ちょうずばち)のそばの南天の木に、白い花が咲いている。
一つひとつ丁寧に作られたかのようにあざやかな葉の陰に、絹糸のようなクモの巣がかかっていて、そこに夜露のしめりが小さな水滴のようについているのも、早い朝ならではの光景だった。
やがて半分ほど掃除が終わったとき、座敷の雨戸の中で目覚まし時計の音がジリジリと鳴り響いた。
しばらくして戸袋の戸がガラガラと開いた。
青木さんが寝間着のままで雨戸をお開けになる。
「おはようございます。もうお目覚めでございますか」
と、おくみはすぐそばへ歩いていって、ほかの人が目を覚まさないように小声で言った。
「よく眠れましたか?」
「はい、ぐっすり眠ってしまって、すっかり寝坊をしてしまいました。私が開けましょう」
「昨夜は会合で少しお酒を飲んだから、目が赤くなっているでしょう?」
おくみは縁側へ上がって、ゆっくりと寝床をきれいに畳んでおいた。
地面のほうをすっかり掃き終えて裏へ出てみると、青木さんが山羊の柵の中でミルクを搾っていらっしゃるところだった。
「まあ、あんなふうにして搾るものでございますねえ」
おくみは初めて見る光景だったので、とてもめずらしかった。
山羊は二匹とも柵の柱につながれている。
青木さんは小さな低い台に腰をかけて、両手で大きなお腹の下の乳房を揉み下ろすようにしながら、下に置いたバケツへとミルクを搾り入れていく。
それが終わると、もう一匹の方へ移動される。
山羊はおとなしくじっと立っている。
「田舎の方では、こんな仕事は小さな女の子なんかがやっているんですよ。よく出るでしょう? これにもちょっとした上手下手があるんです」
毎朝、二匹あわせて二升(約3.6リットル)くらい搾れるのだそうで、みんなで飲めるだけ飲んだ残りを取っておいて、バターなんかにするのだと教えてくれた。
「おくみさんも、これからこれを飲みなさいよ。市販の牛乳よりもずーっと栄養がたっぷりなんですから」
棚の隅には、小屋から出した敷き藁がふんわりと広げられている。
スズメが二、三羽、小屋の屋根に下りてきてチュンチュンと鳴いた。

八

七時の鐘が鳴ると、ばあやは洗吉さんを起こした。
洗吉さんは眠そうな目をこすりながら楊枝をくわえて、縁側の下へと降りていかれた。六月に高等工業学校の試験を受けられるということで、その準備のために神田のほうの学校へ通っていらっしゃるのだそうだった。
学校は八時に始まるので、ばあやは急かして洗吉さんを一人先に朝ご飯の席に座らせ、お給仕をしながらお弁当を詰めた。
おくみは坊ちゃんを起こして服を着替えさせたり、顔を洗いにつれて行ったりしたあと、あたりを掃除した。
洗吉さんが鳥打帽に袴をはき、「眠い、眠い」と言いながら出かけてから、おくみはばあやを手伝って、みんなの朝ご飯の支度をした。
おくみはばあやが切った食パンを、長火鉢に餅網をかけて焼き、バターをつけて、座敷のテーブルの上に運んだ。
ばあやは山羊のミルクを温めて黒い壺に入れた。
「さあ、もうそれで十分ですから、あなたも行って一緒に座ってくださいよ。
そのつもりで食パンも多めに用意したんですから」
坊ちゃんもあちらから呼びに入ってきて、おくみの袖におすがりになる。
「バターはお嫌いじゃないでしょう? さあ、いらっしゃいよ。
一度きりなんですからね。
もう夕飯からは、嫌でもあなたがすべてをやらなければならないんだから」
「じゃあ、私はお給仕だけにしますわ」
おくみはそう言って坊ちゃんについて行った。
青木さんはテーブルに向かって新聞を読んでいらっしゃった。
テーブルの上には小さな花瓶に、新しい黄色い花が活けられていた。
「坊ちゃんはお姉ちゃんと並んでおかけになりますか? ね?」
おくみは黒い壺のミルクを二人に注いだ。
「あなたも食べなさい。
坊やは放っておけば一人で食べるんだから」と、青木さんは小皿へパンを取り分けて下さったり、ミルクを注いだりして下さる。
ばあやが、洋風の小さなコップに入れた半熟卵に、小さなスプーンを添えて三人に持ってきた。
おくみは仕方なく一緒によばれなければならなかった。
「坊やはこのお姉ちゃんとばあやとどっちが好きだい?――ばあやの方が好きかい?」と、青木さんがお尋ねになる。
「それを食べてから言いなさい。

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