初級翻訳・桑の木物語 第3話

山本 周五郎

悠二郎はなんだか張合いのないような気持ちで、何度もふんと鼻を鳴らした。

彼の新しい生活が始まった。
その中で参ったのは、行儀作法というやつと学問だった。
一日中着物を着て、袴をはき、小さくはあるが刀を差して、歩くときも座るときも、姿勢をきちんと正していなければならない。
――目をまっすぐに向けて静かに歩く、座ったら胸を張って両手を膝に置く。
言葉ははっきりと簡潔に要点だけを言い、決して無駄口をきかない。
食事は落ち着いて、お皿やお椀、お箸の音をさせない。くちゃくちゃと音を立てて噛むなどはもってのほかである。
もしこれらの決まりを破ると、すぐさま「悠二郎――」と、父親の怒鳴り声が飛んでくるのだった。

「悠二郎、きちんと座れ。着物の襟を合わせろ」
「口を閉じろ。男はむやみに笑うものではない」
「静かに歩け、悠二郎。廊下は馬場ではないぞ」

悠二郎、悠二郎、悠二郎。
だめだ、いかん、黙れ、座れと、ひっきりなしだった。
あるとき、どうしてもやりきれなくなってお祖父さんに訴えたところ、虚木老人はにやにやと笑って、「お前、兄の松太郎をどう思う」と逆に質問してきた。
彼はすぐに言い返した。
「あんなマクワウリのできそこないなんか、小指でちょいですよ」
「しかしその松太郎は、お前が嫌がっているような作法をきちんやっているではないか」
お祖父さんはとぼけたような顔でこう言った。
「すると、できそこないのマクワウリはお前のほうなんじゃないのか」

人からこんなふうにバカにされたことは一度もなかった。
もしそれがお祖父さんでなかったら、ボコボコにして今戸焼の窯の中にでも放り込んでやるところだ。
悠二郎は悔しさのあまりポロポロと涙をこぼし、それをゲンコでこすりながら言った。
「おいらは、できそこないでも、マクワウリでもありゃしねえ! 降参するようなことなんざ、これっぽっちもねえや!」
「そうかな、本当かな」お祖父さんはまたにやにやと笑った、「――怪しいもんだな」

彼は負けず嫌いに火がついた。
意地にかけては誰にも負けない、ちくしょうと、歯をくいしばってがんばった。
――もちろん、それほど無理難題というわけでもなく、慣れてしまえばどうということはない。それに、よく注意すれば手足を思いきり伸ばす隙(すき)はいくらでもある。
父親が役所に出かけたあと、母親の目が届かないところで、好きなだけ息抜きをすることができるのだ。
もともとそういう才能にかけては一流だったから、サボれる時間や場所を見つけ出して利用するのに、時間はかからなかった。

学問のほうは、茅野道之助(かやみちのすけ)という同じ藩の侍が、はじめの三十日ほど素読(そどく=声に出して本を読むこと)を教えに通ってきた。
――土井家に帰ってきたばかりの頃で、まだちゃんと座ることもできなかったころだ。
それが机に向かって本を開き、相手が読むとおりに一字ずつ口まねをして読んでいくのである。
……漢字はむやみやたらにごちゃごちゃしているし、読んでいる内容がまったくちんぷんかんぷんだ。
足はしびれるし、眠くなるし、面白かったのはあくびがいくらでも出てくることくらいだった。「行儀を正しくしなければいけません」
茅野先生は目をぎょろっと光らせた。
「膝をきちんと整えなさい、あくびをしてはいけません。せっかく学問をしても、あくびをするとそこから知識がみんな外へ出ていってしまいます」
悠二郎は、ふんと心の中で鼻で笑った。
外へ出たがっているならそのまま出してやればいい、無理に頭の中に詰め込んでおく必要なんかないじゃないかと思ったのだ。
「おれはさっきからあくびを二十回くらいしちまったけど、じゃあもう知識はみんな外へ出ていっちまったのかね」
茅野先生は顔をレンガのような赤茶色にし、ものすごい目つきでこっちを睨みつけると、それから「えへん」とわざとらしく咳をして、何事もなかったかのように素読を続けた。
――三日、四日、五日と過ぎるにつれて、ますますいやになり、退屈になっていくばかりだったのに、茅野先生があんなにも熱心にやっているのが不思議でたまらなかった。
「こんな難しい本を読んでいて、先生は面白いのかい?」
少しも悪気はなかったのだが、どうも不審に思ったので素直に聞いてみたのである。
すると先生はひどく怒って、本をバタリと乱暴に閉じ、「これは面白半分でやっているのではない!」と、ものすごく怒鳴りつけるような口調で言った。
「これは学問なのです! 孔子さまという遠い昔の偉大な聖人のおしえなのです。ありがたい、とても真面目で、尊い学問なのです!」
そうして先生は、止まらない様子で何かを長々とまくしたてた。
悠二郎は、これなら好都合だと思った。言っている内容は相変わらずちんぷんかんぷんだが、どうせ意味がわからないなら、ただ聞いてボーッとしているほうがずっと楽だったからだ。
それに第一、また先生の顔が赤茶色に染まっていることや、自分ではよっぽどものすごい凄みを出しているつもりなのだろうが、ぎょろぎょろと光らせる目玉や、活発につばきを飛ばしながら忙しそうに動く口などを、こうしてのんびり眺めているのは相当に面白かった。
――小梅の勝んべも怒るとあんなふうに顔がまっ赤になりやがったな……。あのギョロギョロした目玉は誰かに似ているけれど、誰だったか、そうだ、瓦屋の熊の親父だろうか。
そんなふうに、頭の中でいろいろな連想が次々と湧いてくる。
――それにしてもずいぶんよく動く口だなあ、休む暇もなくパクパクと動かしやがって……。そうだ、お父さんが新しく飼い始めた金魚ってやつを、おれはまだ見ていないぞ。
悠二郎は、素読なんていう退屈なものより、先生の観察をするほうがよっぽど面白いし役に立つと思い、それからは退屈してくるといつもこの手を使って時間をつぶした。
「なあ先生、その孔子ってのは、いったいつごろの人なんだい?」
「敬称をつけなさい! 孔子などと呼び捨てにしてはいけません。聖人と呼ばれるほど偉大な方なのですから……。孔子さまは、今からおよそ二千三百年前の方です」
これにはさすがの悠二郎もびっくりした。
先生がまた適当に大げさなことを言ってハッタリをかましているんだと思ったのだ。
ところがそれが嘘偽りなしの本当の年数だと聞いて、こんどは心底たまげた。
「へえー、おどろいた! そんなに古い人だとは知らなかったぜ。へえー、そんな昔なのか。だけど、そんなに大昔の学問をいまおれたちが習って、まだ何か役に立つことなんてあるのかい?」
茅野先生はそのとき、いつもよりずっと濃い赤茶色に顔を染め上げた。
それを見た悠二郎は、「おっ、こいつはいつもよりずっと長く楽しめそうだな」と思い、思った通りにたっぷりとその様子を観察して楽しむことができた。
――そんなふうにして茅野先生は三十日ほど通ってきたが、ある日を境に辞職して、もう来なくなってしまった。
どうやら卑怯にも父親に告げ口をしたらしい。悠二郎は父親からこっぴどく叱り飛ばされ、廊下の冷たい板の上へ半日ずっと正座させられたのだ。
「明日からは学堂へ行くのだ。

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