薄情な主人だと恨んだだろうな。――あんなに約束したのに、いざという時になってその約束を破り、いないものかのように扱った。恨むのが当然だ。もし俺がお前の立場だったとしても、きっと腹を立てずにはいなかったと思う」
「正直に申し上げます。お言葉のとおりでございました」
悠二郎はこう答えて、少し反抗するような気持ちで、杯の中身をグッと飲み干した。
野性味のある香りがして、ほのかに甘く渋い味がした。
「俺は悠二郎を右腕として頼りにするつもりでいた。それには少しの疑いもなかった」
正篤は目を伏せるような姿勢でこう言った。
「しかし、俺は考えたのだ。お前は俺に近すぎた。当時は自分でも気づかなかったが、下屋敷を二人でこっそり抜け出したことは、新泉(にいずみ)をはじめ多くの者たちが知っていた。知ってはいたが、勘右衛門(かんえもん)に禁じられていたから、みんな知らないふりをしていたのだ」
悠二郎はそっとうなずいた。
ちょっと意外ではあったが、そう言われてみればそのとおりだった。
あんなに何度も頻繁に抜け出していたし、原精一郎という協力者だっていた。誰も気づかなかったと思うほうが、むしろ不自然だと言わなければならないだろう。
「二人はあまりに近すぎた。子供のころからほとんど側を離れず、お互いのことに入り込みすぎたのだ。俺が藩の政治を動かしていくにあたっては、かなり荒っぽいこともやらなければならない。一部の人から不平や非難がおこるのは避けて通れないことだ。俺はそのときのことを考えた……。家臣たちの不難は、そのまま藩主である俺には向かわない。必ず側近の者に向かう。おもしがもし俺の側近にいれば、俺にもっとも近い者として、俺のひいきの臣下として、家中の人たちの恨みや怒りはお前に集まるだろう。――俺はそんなふうにしたくなかった。お前をそういう立場には置きたくなかったのだ」
悠二郎は、中身が空になった杯を手に持ったまま、深くうなだれていた。
胸がいっぱいになり、目の中に熱い涙があふれてきた。「おまえを遠ざけるのは本当に辛かった。おまえが腹を立て、自分を恨むだろうことも分かっていた。それでも、自分はそうするべきだと思ったんだ――。おまえに恨まれることになったとしても、変に危険な立場に置くよりはずっといいと思ったからだ……。だが悠二郎、あれからの十年のあいだ、おれはおまえを思わぬ日は一日たりともなかった。いつもおまえが自分の側にいるつもりで過ごしてきたんだ――。おまえに見せたいものがある、ついてこい」
そう言って正篤は立ち上がり、裏庭の方へと歩いていった。
あとについていくと、見覚えのある桑の木の前で立ち止まり、こちらへと振り返った。
「数を数えてみろ、悠二郎。二人の桑の木を」
最初は、殿様が何を言っているのかその意味が分からなかった。
しかし、一本一本と木の数を数えていくうちに、遠い昔の記憶がハッと思い浮かび、危うく大声をあげそうになった。
――そうして一本一本、桑の木にそっと手を触れながら、三十八本まで数え終えると、悠二郎はもう我慢しきれなくなり、そこに棒立ちになったまま自分の顔を両手で覆った。
「おれの木と、おまえの木を、毎年二本ずつ、あのときからずっと、一日たりとも欠かさず植え続けてきたんだ」
「――――」
「夏になって実がなると、おれは独りでここへやって来て、おまえに呼びかけながらこの実を摘んで食べた――。この実でお酒を造って、おまえに心の中で呼びかけながら、夜のふけた寝室で独りそっと飲むくせもついたんだ。おまえはいつもおれの側にいた。わかるか、悠二郎」
悠二郎の喉から、こらえきれなくなった嗚咽があふれ出した。
すると正篤がサッと歩み寄って彼の両手をしっかりと握りしめ、自分自身も声を上げて激しく泣きじゃくった。
――会いたかったぞ、悠二郎。
――殿、お会いしとうございました。
握りしめられた手から手へと、お互いの胸の中にある思いが、痛いほど鮮やかに伝わってきた。
やがて正篤は「もういい、もうこれで十分だ」と言い、懐から懐紙を取り出して自分の顔を拭うと、今度はパッと明るく笑いながら、目の前にある桑の枝々を指さして言った。
「見てみろ、こんなにたくさん実が生っているぞ。久しぶりにいっしょに摘んで食べようじゃないか、もう泣くのはよしなさい」
「……もう泣いてはおりません」
「おれはこの木、おまえはそっちの木だぞ」
「先刻(さっき)いただいたお酒は、あの桑のお酒でございますか」
「帰るときに持っていくといい、ひと瓶わけて用意してあるからな」
二人は桑の枝に手を伸ばし、真っ黒に熟れた甘い実を摘んでは次々と口に入れた。
「おれのほうの近況は聞いたか?」
「お世継ぎさまと姫さま、合わせて三人のお子さまに恵まれたうえ、領民から名君と慕われているという評判をかねがね伺っております」
「悠二郎のほうは、子供は何人できたんだ?」
「男の子が一人に、女の子が二人でございます」
「おみつとは、相変わらず喧嘩ばかりしているのか?」
悠二郎は口いっぱいに桑の実をほおばったまま、もごもごもごと、なにやら自分でもよくわからない返事をした。
正篤もせっせと実を摘んでは口に運びながら笑って言う。
「舟宿の亭主という暮らしも、案外悪くはないだろう」
「……残念ながら、まったくそのとおりでございます」
「包み隠さず言えば、そういう狙いもあったんだ」正篤は、桑の汁で紫色に染まった唇でフッと微笑む、「――さっき言ったことも本当だが、もう一つの理由は、おまえをいつまでも堅苦しい侍の身分にしておきたくなかったからだ。お屋敷の中で窮屈に仕えるより、自由な町住まいのほうが、おまえの気性にはずっと似合っている。おみつと添わせて、どうか気楽な一生を送らせたかった。おまえを窮屈なしがらみの中から解き放ち、自由にしてやりたかったんだよ」
「――これを見てください」
悠二郎は、殿様のそんな言葉など聞こえないといったふうに、わざとこう言って正篤のほうへ真っ黒になった口を大きくあけてみせた。
正篤も負けじと、「おれのはどうだ」と言って自分の口を大きくあけた。
二人は遠い昔の向島での出来事を懐かしく思い出し、お互いの黒く染まった口を見合いながら、二人そろって声をあげて笑い出した。
――これは何ともおろかなふるまいである。三十歳にもなる大人の男が二人して、あんな子供だましのようなことをしなくてもいいではないか。
確かにその通りだ。確かにこれは、はたから見ればおろかしい光景に違いない。
しかし、今の二人には、そうやってくだらない悪ふざけでもするのでなければ、胸にあふれる思いを言葉に交わすことができなかったのだ。この桑の実が古い思い出を呼び覚まして二人をしっかりと結びつけ、生い茂る桑の枝葉が、今まさにこみ上げるあまりにも赤裸々な感動をそっと隠してくれる。
それがなければ、二人とももっと恥ずかしさがこみ上げ、やりきれない思いに耐えきれない場面を演じなければならなかっただろう。
「ようやく、これからは自分の自由になる時間も少しずつ作れるようになってきた」
正篤は次の木へと移動しながら言った。
コメント