まだ捨吉は上り框に腰掛けたまま素足のままでいて、自分の本箱から取り出したお気に入りの本を膝の上に載せ、夢中になって読書にふけっていたのだ。
ふと気づくと、細君が自分のすぐ背後に立っていたので、捨吉はなんだかきまりが悪そうに本をパタンと閉じ、少し顔を赤らめた。
病気が治ったばかりの細君が、背筋をピンと伸ばし気味に、玄関から茶の間へと家の中を静かに歩いていくその後ろ姿を、捨吉はとても珍しいものを見るような思いで見つめていた。
やがて彼は、格子戸の外に置いてあった手桶を再び提げて井戸のほうへ行こうとした。
すると、ちょうどその時、樽屋(たるや)の内儀さんが娘を連れて、表門の戸をガラリと開けて入って来るのに出会った。
「おや、捨さん。いつ帰ってきたのい?
学校はもうお休みに入ったのかい?」
河岸(かし)の内儀さんは、気さくに声をかけてきた。
女性でありながら、芝居の世界ではなかなかに威張りの利く、しっかりとした人だった。
その娘も捨吉にペコリと会釈をして、母親の後をついて勝手口のほうへと回っていった。
以前、田辺の細君の口から、「捨さんは、うちの養子にはもらえないものかねえ」と樽屋の内儀さんが尋ねていたという話を聞いてからというもの、捨吉はどうもこの人たちに会うと少し気恥ずかしいような、妙な心地がするのだった。
捨吉は井戸端で足を綺麗に洗ってから、水を入れた手桶を提げ、台所と奥座敷、そして土蔵のあいだにある細い通路(廂間・ひさま)を通り抜けた。
田辺の屋敷の裏手にある、ちょっとした空き地が木戸の外に広がっている。
そこは、ちょっとした小さな花畑のようになっていた。
中央には、以前ここに住んでいた人が野菜でも育てていたらしい、小さな畑の跡がわずかに残っており、捨吉はその一部に、高輪(たかなわ)のほうからわざわざ持って帰ってきた苺(いちご)の苗を植えておいたのだ。
学校の同窓の友だちで、労働会というものに入って実際に百姓をしながら勉強に励んでいる青年が、その苺の苗を分けてくれたのだった。
捨吉はその苺がどうなっているか見に行った。
数株の苺は、驚くほどすごい勢いで、四方八方へと元気よく蔓(つる)を伸ばしていた。
長く伸びた蔓が土に触れている部分は、そこからすぐに新しい根を生やしていた。
小さな命の可愛らしい繁殖が、あっちでもこっちでも始まっていたのである。
「おっ……!」「なにもお返しなんていらないさ」
捨吉は目を丸くしてそう言うと、青々とした力強い葉っぱや、どこまでも伸びていきそうなツルのすき間にグッと手を差し入れた。すると、そこからなんとも言えない心地よさが胸に広がってきたのだ。
手桶に入れて持ってきた水を、得意げにジャージャーとまいていると、ちょうどそこへ主人もやってきた。ふっくらとした胸元を涼しげにはだけ、クモの巣のような模様が入った軽い浴衣姿で、庭をぶらりと歩き始めたのだ。
「おじさん、見てください! こんなにイチゴが増えたんですよ」
捨吉が嬉しそうに声をかけた。
主人は大人としての立派な風格をただよわせながら、捨吉が立っているそばを行ったり来たりした。
ときには向こうの花壇の隅っこまで歩いていき、そこから母屋のほうを振り返って眺めてから、また捨吉のほうへと戻ってくる。
いつかはこの空き地に、新しいお座敷を建て増そうと思っているんだ、というような計画を捨吉に楽しそうに話して聞かせた。
それからさらに、自分の仕事の話もしてくれた。大勝(たいしょう)の親分と力を合わせ、もうすぐ横浜にあるお店を経営する予定なんだ、ということも語ってくれた。
主人はどんなときでも、捨吉の若い心をやる気させようとしているように感じられた。
この「おじさん」の仕事や暮らしが、どんどん良い方向に向かっていることは、捨吉にとってもこれ以上ないほど心強いことだった。
ここ八年もの間、ずっと病気で苦しんでは困らせていた細君がすっかり元気になっただけでも大事件なのに、家はますます栄えていくし、出入りする人もどんどん増えている。いいことずくめだった。
主人の目は、自信と誇らしさでキラキラと輝いている時期だった。
その目は、言葉のほかにも、たくさんのメッセージを語っていた。
「おじさんが苦しかった頃の暮らしと比べてごらん。
捨吉、お前はこんな立派な家や庭を自分のものとして住めるってことを、どう思っているんだ?
書生を置いて、女中を使って、まわりの人たちは『田辺さん、田辺さん』って頼ってくる。髪結いの娘で芸事をするような人までが出入りすることを自慢にして、おじさんが脱いだ着物まで丁寧にたたんでくれるんだ。そんな暮らしを、お前はどう思っているんだ?
おじさんの指で光る金や宝石の輝きを見ても、なんとも思わないのか?
捨吉、捨吉、どうしてそんなふうなんだ……どうして、おじさんの後についてこないんだ?」
主人はさまざまな態度や言葉で、そうやって捨吉に生き方を教え込もうとしているようだった。
細君の病気全快を祝うお祝いの日には、主人も早起きをして、東の空に昇るお日さまをありがたく拝んだ。
町のガキや魚河岸(うしがし)で有名な菓子屋に注文した「おこわ(強飯)」が、午前中のうちに届いた。
「行徳(ぎょうとく)だよ!」と大きな声をあげて勝手口へ荷物を下ろす、出入りの魚屋の声も、井戸端で魚の入れ物をざぶざぶ洗う音も、普段よりずっと威勢よく聞こえた。
奥座敷の神棚の下には、大勝をはじめ、いろいろな人たちから届いたお祝いの品々が、きれいな水引(みずひき)のついたまま山のように積み重ねられていた。
お祝いのおこわをあちこちに配るため、捨吉はパタパタと休む間もなく走り回った。
勝手口に続く長火鉢の置いてある場所では、おばあさんが房州(ぼうしゅう)から来た女中にテキパキと指示を出しながら、大忙しで働いていた。
菓子屋から運んできた黒塗りの高いお盆の前には、細君までやってきて座り、おこわを箱につめる手伝いをしようとした。
「お前は病み上がりなんだから、そんなことしなくていいんだよ!」
おばあさんは叱るような口調でそう言いながら、大きな重箱を細君の手からサッと取り上げた。
赤い南天の実の模様がついたゴマ塩の包み紙や、ずっしりと重いちりめんの風呂敷。それらをおばあさんがきれいに詰めてくれた重箱の上にのせ、風呂敷できゅっと包むと、捨吉はまた河岸の樽屋(たるや)のほうへおこわを配りに出かけたのだ。
その日は、捨吉のお兄さんも、大川端(おおかわばた)の下宿先から呼ばれてやって来ていた。
下宿はすぐ近くだし、おまけに大勝の親分は田辺の主人の旦那さまでもあると同時に、この民助(たみすけ)兄さんにとっても頼るべき親分だったから、そんな縁があってよく遊びに来ていたのだ。
田辺の主人と民助は、同じ郷土の出身という親しみもあった。
「民助さん、まあ見てやってくださいよ。捨さんの足なんて、こんなになっちゃってさ」
おばあさんは民助にお茶をすすめながら、ニコニコして話した。
「捨さん、ちょっとそこに出して、お兄ちゃんに見せてやりなよ」
細君も捨吉のほうを見て言った。
「このごろは、十文半(じゅもんはん)の足袋(たび)じゃ足が入らないんだよ。
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