初級翻訳・梟の眼 第2話

大倉 燁子

「ああ、あのダイヤが欲しい!」
溜息といっしょについ口に出してしまってから、急に恥ずかしくなり、顔を真っ赤にして立ち上がり、ポケットからハンコ……じゃなくてハンカチを取り出そうと手を突っ込んだその時、カチリ! と床に落ちたものがあった。
おやっと思って見ると、白っぽくて光った小さなものがコロコロと転がり、部屋の隅の壁際で止まって、電灯の光を受けてピカッと目を射抜くように光った。
ダイヤだ、ダイヤの指輪だ!
三越の店人にちゃんと渡したと思っていた、あの五千八百円の指輪だ。
彼女は頭の先から足の先まで、ジーンと電気が走ったように感じて、体がカチコチに固まって身動き一つできない。
どうして、ポケットの中にあのダイヤが入っていたのだろう? 欲しい! と強く強く願い続けたあの瞬間のパワーに引き寄せられて、ポロッと転がり込んできたのではないだろうか。
まさか――そんなことがあろうとは信じられないけれど、かつてある超能力者が物を取り寄せるのを見たことがある。
もしあんなことが実際にできるものだとしたら――、もしかして――。
陽子は怖くなった。
今にも、三越から何か文句を言いにやって来やしないだろうか。
たとえそれがわざとやったことじゃないにしても、ポケットに入れているところを誰かに見られはしなかっただろうか。
警察に訴えられたらどうしよう? いっそ返しに行こうか。
――いや、それも変だ。
かえって疑われるかもしれない。
――では、このまま黙って、知らんぷりしていようか――。
彼女は指輪を半紙に包んで、ひとまず人目につかないタンスの引き出しの奥に入れ、鍵をかけて、熱くなった頭を冷ますつもりでベランダに出た。
夫にぜんぶ話して相談してみようか。しかし、それも心配だった。
潔癖な夫のことだから、どんなふうに誤解しないとも限らない。
それともう一つ、陽子の胸をチクチクと刺すような心配事があった。
それはほかならぬ、兄のことだ。
春樹は見た目も立派で、学校の成績も良く、とても頭がよかったけれど、どういうわけか、子供の頃からものを盗むクセがあったのだ。
だが、彼に言わせるとこうなのだ。
「世間の人たちはみんな間抜けでバカばかりだ。すきだらけだから盗まれるんだ。盗んでくれと言わんばかりの顔をしているのに、自分の不注意を棚に上げて、人に盗むクセがあるなんてちゃんちゃらおかしい」
その兄の気持ちは、彼女にもよく分かった。
それに春樹は、物を盗んでそれをどうこうしようというわけじゃない。ただ、他人が大切に身につけているものを、こっそりとスリ取るのが愉快なのだ。その瞬間、実に何とも言えない快感を覚える。それを味わいたいばかりに罪を重ねているけれど、盗んでしまえばそれきりで、品物に執着なんかないから、持ち主の住所を調べてはこっそり送り返してやるのだ。
まさか、由緒ある平松子爵の次男がスリだなんて誰も気づかないだろう、知っているのは妹の自分くらいのものだと彼は考えていた。
しかし、そのハラハラドキドキする楽しい遊びも、陽子が梅田家に嫁いだ日を境にして、きっぱりとやめたはずだった。
だが、もしも物を盗むクセが血統というものにあるのだとしたら――、知らぬ間に自分の心のどこかに芽生えていたとしたら――、そう考えると、彼女はいてもたってもいられないほど苦しくなった。

薄墨色の女

警察から呼び出される夢を見て、陽子は目を覚ました。
ガーゼの寝巻きは汗で肌にぴったりとはりついている。
夫はすでに起き上がり、朝の新聞を読んでいた。「何か変なことでも言っていないかしら」と思って、ちらっと上目遣いに夫の顔色をうかがいました。
「何だか、寝言を言っていたよ」
夫の言葉にドキッとして、顔を背けて気持ちを落ち着かせてから、何気ないふりをして、
「新聞に――、何か面白いことでも、載っているのかしら?」と尋ねました。
「うむ。
『省電の通り魔』ってタイトルで、スリの一味が捕まった記事があるんだがね。その犯人グループを逮捕した山梨刑事の写真が出ているんだ。この男、この間会社へやって来て、僕と少しの間話したからよく知っているんだよ」と言って、夫はその新聞記事を読み上げました。
夫は山梨刑事と面識があるので特別に関心を持っているようでしたが、陽子は何だか嫌な気持ちがしました。
それでも、黙っているのも不自然だと思い、
「山梨刑事って、どんな方なの?」
とお世辞半分に聞いてみました。
「まだ若いけれど、なかなかの敏腕だよ。
署内きっての美男子で、女性のように優しい顔をしている。でも、スリ仲間からは『鬼の山梨』なんて呼ばれて恐れられているそうだ」
「そんな綺麗な人を、鬼だなんてかわいそうねえ」
陽子は一刻も早くその話を切り上げてしまいたかったので、枕元の時計を見て、
「あら! もう八時を過ぎてるわ!」とびっくりしたように飛び起き、急いで寝室を出ました。
次の間にある大きな姿見に、彼女の青ざめた顔が映し出されました。
頭がずきずきと痛みます。
夫が家を出たら実家へ行って、兄の春樹に相談しよう。
こういう問題こそ、誰よりも彼が一番よく理解してくれるはずだ。
きっと力になってくれるだろうし、良い知恵も貸してくれるに違いありません。
彼女は心の中の苦しみを隠し、努めて元気そうに振る舞いました。
やがて夫を玄関で見送ると、すぐに実家へ電話をかけてみましたが、兄はまだ起きていませんでした。
急用ができたのであとから行く、と言い残して電話室を出ようとすると、扉の前に女中が立っていて、
「奥様にどうしてもお目にかかりたいとおっしゃって、ご婦人の方がいらしておりますが」と言いました。
陽子はわけもなくハッとして、
「えっ? ご婦人の方だって? お名前は?」
「おっしゃいませんが、『学校の友人だから、お目にかかれば分かります』と――」
「どんな方?」
「モダンで、背が高くて、目が大きくてとても美しい方でございます。
薄墨色の洋服が、とってもよくお似合いで――」
話を聞いているうちに、彼女のひざ頭はガタガタと震え出しました。
薄墨色の女! 背が高くて、目の大きな、ああ、あの人だわ!
三越の貴金属売り場で、自分と同じように指輪をじっと見ていたけれど、あれはお客さんではなかったのかしら? 洋服売り場のあたりにはよくあんなモダンな人がいるから、あの女もやっぱり店員の一人だったのかもしれない。
そう思うと、ますます不安が募りました。
たとえ三越側だとしても、梅田子爵夫人という身分に対していきなり乱暴な真似はできないから、まずは穏便に話をつけようと、店員を寄こしたのかもしれない。
「用件を聞くまでは、知らない人と会ってはならない」という夫の日頃の言いつけもすっかり忘れ、名前さえ名乗らないその未知の婦人を、応接室に通させました。
「お茶だけでいい。
私がベルを鳴らすまで、――絶対に入ってきちゃダメよ」と、我知らずきつい口調で言い放ち、陽子は胸をドキドキさせながら応接室のドアをさっと開けました。
果たして――。
あの薄墨色の女は、にこやかに微笑みながら一礼して、
「昨日は失礼いたしました。
突然で――さぞ驚かれたでしょう?」
と、馴れ馴れしく話しかけてきました。

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