バタバタと裏階段を駆け上がる足音がしたので、吉川は彼女を突き飛ばすと、階段を飛ぶように駆け降りて、表へ逃げ出しました。
初子は気が狂ったようになって悔しがり、「美佐ちゃん、早く――、ゴリラを捕まえておくれよ」と騒ぐので、美佐子は吉川の後を追いました。
通りへ出ると、吉川はばったりと百合子に会いました。
「き、きみ――」と言って、彼は夢中で走り寄りました。偶然のこの出会いを、百合子は喜んだのか驚いたのか、立ちすくんだまま、しばらくは身動きもしませんでしたが、やがて喉から絞り出すような声で、「しばらくでしたわねえ」とにっこり笑いました。
その一言で彼は有頂天になりました。
「どこへ行くの?」と急き込んで聞くと、百合子はもじもじしながら、「姉さんのところへ、――ちょっと、あの急用ができて――」と言いながら、救いを求めるように美佐子へ合図の目を向けました。
せっかくのところで捕まってしまった、と美佐子は心配して、初子を呼びに行こうと思いましたが、この場を離れたら百合ちゃんがどんなに困るだろうと思い、思案に余ってぼんやりしていると、吉川が「美佐ちゃん、邪魔すると承知しないぞ」と恐ろしい目でじろりと睨んだので、美佐子は縮み上がりました。
「百合ちゃん、君に話したいことがあるんだ。ちょっと、一緒にそこまで付き合ってくれ」
「じゃ、ちょっと、姉さんのところへ行ってきて、それからでいいでしょう?」
「いけない、いけない。こっちは急ぐんだから」
躊躇している彼女を引きずるようにして連れて行きました。美佐子はそれを見ていながら、引き止めることができませんでした。
「刑事さん、私の知っているのはそれだけです」
「それきり百合子は姉さんのところへ来なかったか?」
「来ませんでした。初子さんは大変待っていましたけれど――。私は叱られるのが怖かったので、百合ちゃんが吉川さんに連れて行かれたことは黙っていましたの」
死の直前に喧嘩したという不利な事実は、彼女の立場を一層悪くしました。厳重に追及したところ、最初はあくまで知らぬと頑張っていましたが、ついには隠しきれず、吉川と争ったことや、桃色のリボンは彼女のものであること等を白状しました。
組みついた時、髪に結んでいたリボンが吉川のカフス・ボタンに引っかかって取れたのだと言いました。しかし、なぜ彼はそれを最後の瞬間まで手放さず、握りしめていたのでしょうか? そこに何か意味がありそうに思われます。
あるいは、彼と初子との間にも秘密があったのではあるまいか。そのため、いっそう彼女が二人の仲を厳しく言って引き裂こうとしたのかもしれません。杉村の初子に対する疑問はいよいよ深くなりました。
百合子を殺したのは誰だろう? それもあるいは――、と考えた時、ふと彼の頭にあることがひらめきました。杉村は急に立ち上がると帽子を取って、そそくさと出ていきました。
水兵結び
二時間後、杉村は元気よく戻ってきました。係長は彼の顔を見ると、待ちかねたように尋ねるのだった。「どうだね? 君、何か手がかりはつかめたかい?」
「ついに謎が解けました」と彼はにっこり笑いました。
係長は目を丸くして、
「何だって? 謎が解けた? 犯人がわかったというのか?」
「わかりました。
百合子を殺したのは吉川です」
「じゃあ、吉川を殺したのは誰だ?」
「彼自身です。つまり他殺ではなく、自殺だったんですよ」
「死体を風呂敷に包んだのだけが、初子の仕業ということか?」
「いいえ、それも彼自身がやったことでした」
「しかし、自分で自分を包んで、外から縛るなんてことができるものかな?」
「できますよ。
あれは水兵結びですから、少しその道に心得のある人なら誰にだってできます。
たった今、彼が元水兵だったことがわかったので、この謎がすっかり解けたというわけなんです。
僕の推測を話しますから聞いてください。
吉川は『ドラゴン』を出ると、偶然百合子に会い、彼女を無理やり車に連れ込んで、しきりに復縁を迫りましたが拒絶されました。
言葉を尽くして頼んでみてもダメで、手厳しく突き放されたことにカッとなり、嫉妬と怨恨に燃え上がった血が頭に昇ったのでしょう。夢中で彼女に飛びかかり、力を込めて細い首を絞めつけたのです。
ハッと我に返ったときには、百合子はもうぐったりとして、彼の腕の中に倒れていました。
その死に顔をぼんやりと見守りながら、今こそ彼女は完全に自分のものになった、と思うと、なんとも言えない嬉しさが胸いっぱいに広がったのです。
吉川はその場で自分も後を追うつもりでした。しかし、こんな結果になったのはみんな初子が悪いからだ。
憎いのはあの女だ。
復讐してやる、それから死ぬことだ、と思ったのです。
自惚れというものは恐ろしいですね。あれほど嫌われていたことに気づいていなかったのですから。
彼にとっては幸いだったのかもしれませんが――。そこで彼は考え抜いた末、彼女の部屋で自殺して、それを他殺に見せかけ、嫌疑をかけてやろうと思いつき、そのためにあの桃色のリボンまで握って死んだのです」
と言って、杉村はリボンと麻縄と風呂敷を持ってきて、
「水兵結びをやってみますから、見ていてください」
と、青い風呂敷を広げました。その真ん中に座って、麻縄の一端にリボンを結びつけ、風呂敷の四隅を集めて縄でくくり、リボンを握ってすっぽりと中に入りました。そして中からぐいぐいと手繰り寄せます。彼がリボンを引っぱるたびに麻縄はだんだんと締まっていき、最後にグンと力を入れたので、縄は驚くほど強く締まりました。
同時にリボンはするりと抜けて、彼の掌の中に握られました。
「入ることは入りましたが、自分では出られません。
麻縄を断ってください」
係長がナイフで縄を断ちました。
杉村は乱れた髪をかき上げながら、
「吉川は風呂敷の中で、心臓を突き、自殺したのです」
「しかし、姉への復讐なら、むしろ妹と心中したように見せたほうがいいんじゃないか。それに――好きな女を車の中に置き去りにして、一人で初子の部屋へ行ったのも少し変じゃないか」
「ガソリンが切れたから、やむを得ずあそこへ置き去りにしたんでしょう」と言ったその時、後ろのドアが開いて、一人の刑事が係長に解剖の報告をしに来ました。
「吉川と百合子の胃の中には同じものが残っていましたが、消化の進み具合から見て、吉川が先に死んだことがわかりました」
その一言で、杉村の推測は根本から覆されてしまいました。
刑事はさらに言葉を続けました。
「それからもう一つ、重大な発見がありました。
それは吉川の口の中から出てきた小さな肉塊です。
その肉塊には皮がついていました。
しかも、指紋のある――手の指先らしいということです」
小指の先
そこへ杉村の部下が慌ただしく入ってきました。
彼は川口の麻酔がさめるのを待ち、尋問するつもりで、部下を築地の病院へ詰めきらせていたのです。
「杉村さん、川口氏はまだ麻酔がさめないんです。
昏々と眠り続けていて――非常に心配な容態だそうです。
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