ゴリラ
江川初子がカフェー・ドラゴンでの仕事を終えてアパートへ帰ってきたのは、朝の五時ごろのことでした。
彼女がハンドバッグから部屋の合鍵を取り出して扉を開けると、ひんやりとした朝の空気がすうっと顔を撫でました。「おや?」と思って見ると、通りに面した窓が少し開いています。確かに閉めて出かけたはずなのに、と思いながら室内を見回しましたが、特に変わった様子はありません。
初子は窓を閉め、ついでにブラインドを下ろしました。これからぐっすり眠ろうと戸棚に手をかけましたが、なんだかひっかかって開きません。「何かがつかえているのかな?」と力を込めてぐっと引いたその瞬間、どしん! と重い音がして、大きな荷物が赤い布団と一緒に転がり出てきました。
彼女はハッとして飛び退きました。
見ると、それは唐草模様の入った、大きな青い風呂敷包みでした。
「一体誰が、こんなものを戸棚に入れたのかしら? 中には何が入っているんだろう?」
初子は好奇心に目を輝かせ、風呂敷の上からそっと触ってみましたが、よくわかりません。布団にしては少し手触りが硬いようです。破れ目から中を覗こうとして、右目を近づけたその瞬間、
「キャッ!」
魂が抜けるような悲鳴を上げると、廊下へ飛び出してバタバタと駆け出し、そのまま気を失って倒れてしまいました。
そのただならぬ物音に、あちこちのドアが一斉に開き、寝巻き姿の男女がわらわらと出てきて彼女の周りを取り囲みました。
管理人が駆けつけたときには初子はすでに意識を取り戻していましたが、怖ろしそうに自分の部屋の方を指差したまま、唇をわなわなと震わせて、なかなか言葉が出てきません。
「どうしたんです?」と、管理人は初子にというより、周囲の人々に説明を求めるように言いました。
そこへ仲良しのダンサーが、芥子粒(けしつぶ)のように小さな丸薬を掌に乗せ、コップを持ってやってきました。
「初ちゃん、しっかりして。さあ、この六神丸を飲んで。気を落ち着かせてから、何があったのかみんなに話してちょうだい」
そう言ってコップを唇にあてがうと、初子はゴクリと喉を鳴らして水を飲みました。
「少しははっきりした?」
彼女は黙ってうなずきました。しばらくして大きなため息をつくと、「ああ、怖かった!」と吐き出すように言いました。
「どうしたの? 何がそんなに怖かったのよ」
初子はダンサーの手にすがってふらふらと立ち上がると、しわがれた声で言いました。
「あのね……風呂敷の中に、変なものが入っているんです。早く、開けて見てください」
管理人が先頭に立ち、一同は彼女の部屋へ入りました。なるほど、青い風呂敷包みが部屋の真ん中に放り出されています。
「江川さんの荷物じゃないんですか?」
初子は激しく首を振りました。
「私のなものですか! 私がいない間に、誰かが戸棚の中に隠したんですよ。早く……どなたか、中を覗いてみてください」
言われるまま、管理人が真っ先に破れ目に目を当てましたが、「アッ!」と仰天して叫びました。
「人間が……人間が入ってる! やあ、これは大変だ!」
その声を聞いて、若い女性たちは逃げ出してしまいました。怖がりながらも野次馬根性で残った人々は、代わる代わる風呂敷の中を覗き込んでは顔色を変えました。
「頭はあるが……顔が見えないな」
「男か、女か? 断髪(ショートヘア)だ」
「うむ、素敵な美人らしいぞ!」
「開けてみようじゃないか」
荷物を囲んで騒いでいるところへ、二十七、八の青年が入ってきて一同を制しました。
「ダメだ、ダメだ。触っちゃいけない。警官が来るまで、手をつけちゃいけないんだから」
見るとそれは、このアパートの住人の一人で、私立探偵として評判のいい山本桂一という、初子のパトロンでした。彼は旅行から今帰ったばかりで、玄関を上がったところでこの騒ぎに出くわしたのです。
「誰か早く、交番へ行って通報してくれませんか」
パジャマ姿の学生が一人、交番へと飛んでいきました。
急報を受けた警視庁からは、係長が若手の敏腕家・杉村刑事を連れて駆けつけました。その場にいた山本桂一から事の顛末を聞くと、係長は杉村を振り返って言いました。
「君、風呂敷を開けてくれ」
青い風呂敷包みは四隅がまとめられ、一本の強い麻縄で厳重に縛られていました。杉村は最初ナイフで縄を切ろうとしましたが、何を思ったかそれをやめ、結び目をじっくりと調べながら、十分もの時間をかけてようやく解きました。
中からは血だらけの男が現れました。手足を縮め、うつ伏せに丸くなっています。体をひっくり返してみると、短刀が胸に深く突き刺さっていました。
折り曲げた左手には、桃色のリボンがしっかりと握られています。まるで抱きしめているかのように胸に押し当てられたそのリボンは、一尺余りの繻子(しゅす)地でした。
杉村と山本が頭と足をそれぞれ持ち上げ、死体を赤い友禅の布団の上に横たえました。それは、いかにも醜い顔をした二十五、六の男でした。
「アッ! ゴリラ――」
小さな叫び声とともに、初子はよろよろと倒れかかり、管理人の腕にしがみつきました。
人々の視線は、一斉に彼女へと集まりました。「この男、君、知っているのかね?」
管理人がそう尋ねました。
初子は顔を真っ青にしながら、恐ろしさのあまり顔を背け、震える声で答えました。
「知っていますとも……この男は、『ゴリラ』というニックネームで通っている、ツバメ・タクシーの運転手の吉川さんという人ですわ」
すぐにツバメ・タクシーの主人が呼び出されました。主人は一目見るなり、間違いなく吉川であると認めました。
警察医の診断によると、死因は心臓を刺されたことによるもので、亡くなってから数時間が経過しているとのことでした。
死体は解剖されることになり、初子は容疑者としてその場から警察の本庁へと連行されていきました。
その様子を不安げに見送る山本の表情には、曇りがありました。彼は、何としてもこの事件を解明し、彼女の疑いを晴らさなければならないと、心に強く誓ったのです。
女優・江川百合子
初子は厳しい取り調べを受けましたが、吉川運転手の殺害については一切関係ないと主張し続けました。彼女は興奮した様子でこう訴えました。
「そんなに疑うなら山本さんに聞いてください。あの方は本当の私という人間を知っています。私はそんな悪いことのできるような、大胆な女じゃありません!」
悔しそうにそう言うと、杉村刑事は少しだけ言葉を和らげました。
「では、どうして君は吉川のことを知っているんだ?」
初子は少し迷ったあと、口を開きました。
「妹がほんの少しの間、あの人と同棲していたことがあるんです。それも無理やりに……強制的に一緒にさせられていたんですが……」
「ご主人だったのか?」
「いいえ、とんでもない! 夫なんかじゃありません」
「君の妹は何をしているんだ? やはり君と同じ女給さんかね?」
初子は少し誇らしげに言いました。
「女優なんですわ」
「女優? 何という名前だ?」
「江川百合子です」
それを聞いて、杉村は初めて彼女の顔をじっくりと見ました。なるほど、どこか江川百合子に似ています。
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