初級翻訳・梟谷物語 第4話

山本 周五郎

「あっ」
「動くな、拙者のにらんだ通り、お前はやっぱり土生一族の密偵だったな。――来い!」
逃れようと、しきりにもがく少女の体を、石岡はずるずる引きずるようにして屯所の小屋へ入った。
――そして、あきれている半九郎の前にどうんと突き倒した。
「隊長、やっぱりこいつは密偵です」
「どうしたんだ」
「私ははじめからあやしいやつとにらんでいたので、たえず様子を見張っていたのです。
するとさっき、裏の防壁を乗り越えて行くのを見ました。
梟の鳴き声を合図にして、仲間となにか連絡を取ってきたのです」
「梟の鳴き声だと?」
半九郎はさすがに顔色を変えた。
「お前、それは本当か?」
「本当です」
思いがけなくお糸はきっぱりと答えた。
「わたくしは土生一族の娘です。そしてこの梟谷はわたくしたちのものです。酒井の殿様を守るために、土生一族の土地を守るために、わたくしは自分の務めを果たしたのです」
「こいつ!」
石岡はお糸の肩をつかんで、
「小娘のくせにふといことを抜かす。
隊長! 斬ってしまいましょう」
「お斬り下さいまし」
お糸は静かに言った。
「わたくしは自分の役目を果たしました。
斬られても少しも心残りはございません。お糸はご先祖の土地を守ったのです。お斬り下さい」
「よし、血祭だ!」
石岡は大剣をぎらりと抜いた。しかしそれより早く半九郎が、
「待て、石岡!」
と叫んで押しとどめた。
「なぜ止めます、こいつは我々を――」
「待て、待てというのだ」
半九郎はしかりつけるように言った。
「後援隊はもうすぐ到着する。いいか、それまではこの娘が人質の役に立つんだ。
……なにをしめし合わせたか知れぬが、後援隊が到着してここを一緒に出発するまで、もし土生一族が攻めて来るようならばこの娘を人質にして彼らの攻撃を中止させることができる」
「おう、そうでした」
「縛れ! 手も足も、そして猿轡(さるぐつわ)をはめるんだ。はじめて見つけた通りにしろ」
半九郎はそうきびしく命じた。
石岡は部下を呼び、手早くお糸をしばり上げたうえ、かたく猿轡をかませた。
お糸はだまって、されるがままになっていた。――半九郎はそれが終わると、石岡に命じた。
「もういいから篝火(かがりび)を焚かせろ。
それから後援隊のために握り飯を作らせておけ」
「――はっ」
「出発の準備はいいな?」
「荷造りはすみました。弾薬も食糧も馬へ積むばかりです」
「夜襲に注意しろ」
石岡は部下を連れて出て行った。
半九郎は黙って立っていた。長いこと夜空を見上げながら黙って立っていたが、やがて静かにお糸の前に近づいた。
「――お糸さん」
半九郎の声は悲しそうだった。
「私はいまもおまえを憎んではいない。おまえは自分の役目を果たした。土生一族にとっては立派な手柄をたてたのだ」……けれどひとこといって置きたい」
「…………」
「おまえは日本人だね? 私も日本人だ、おまえは梟谷にそだって知るまいが、私たちを生んだ日本の国は、いま大変なあぶない瀬戸際にいるんだよ。
――北からロシヤ、東からはアメリカ、西からはイギリス、フランスというように、世界の強い国がみんな日本をねらって押しかけてきているんだ。
日本は三百年という長いあいだ、徳川氏のまちがった鎖国主義のために、この島国のなかでちぢまって暮してきた。
そのあいだに世界の国々はどんどん文明が進んで、弱い国を攻めて亡ぼしながら日本へ近づいてきたんだ。
……いいかい。
いま日本の四方には、日本を攻め取って自分の物にしようという恐しい敵がいっぱい押寄せているんだよ」
半九郎はかんでふくめるようにいった。

七

「――土生一族もない、徳川も酒井もない、日本人という日本人は、武士も百姓も町人も、老人も子供もいっしょになってひとかたまりになって、お国のために戦うときが来ているんだ。
全国民がひとつの心になって、恐しい外国人の手からお国を守るべきときなんだ。
そのためにこそ徳川氏は政治を天子様へお返し申し上げたのだ、もう大名も将軍もなくなっているんだ。
私もおまえも、百姓も町人もみんながただ天子様お一人を上にいただいて、お国のために命を投げ出すべきときがきているんだ。
――それがわからぬ者は国賊だ、天子様の仰にそむく不忠者だ、私たちはその不忠者を討つためにたたかっているんだ。
おまえがもしほんとうに日本人なら、私のいった言葉がわかるはずだ、梟谷は土生一族のものではない、天子様のものだ、おまえは天子様の国の娘なのだ」
半九郎は言葉を切っていった。
「私はもうすぐここから出発する、もう二度とあうことはないだろう。
……よく考えて、私のいったことがわかったら、天子様のために、日本のお国のために、立派な少女になるようにいのっているぞ」
そういいおわると、半九郎は静かに外へ出て行った。
お糸は眼を閉じていた。
いろいろな考えが頭のなかで渦のようにくるくるとまわった。
――今日まで知らなかったことが、まるで夜の明けるようにだんだんとはっきりしてきた。
……知らなかったのだ、ほんとうに知らなかったのだ。
天子様のことも、お国のことも、自分には縁のない遠いところこととしか思っていなかった。
けれど今こそいろいろなことがわかった。
梟谷の奥に住む土生一族の娘にすぎないお糸も、よく考えてみれば天子様の民である。
その心さえあればお国のために立派な働きの出来る体なのだ。
いな! 天子様とお国のためにこそ、働かなければならぬのだ。
それでこそはじめて日本人といえるのだ。
――ああ、あたしはまちがっていた。
お糸は大きく眼をみはった。
外では人々のさわがしいどよめきが聞える、どうやら後援隊が着いていっしょに出発する様子である。
武器のふれあう音や馬のいななく声が聞えてくる。
――ああいけない、行ってはいけない、屏風岩には爆薬がしかけてあるんです。
お糸はくるおしく叫んだ。
しかし手足をしばられ、猿轡をはめられている身にはそれを知らせるすべがなかった。
――そのうちに出発の命令が聞えた。
「第三隊前へ、――銃隊つづけ」
そして勇ましい足音がおこった。
お糸は土間の方へずり出して行った。
五百人の命はいまお糸の手ににぎられていると同じである、もしそのまま進軍して行ったら、五十貫ずつ、五か所にうずめてある爆薬のために、屏風岩がくずれて五百名は生埋めになるのだ。
――待って下さい、待って——
お糸は土間へころげ落ちた。
そして、入口の引戸へ体をたたきつけた、するとつき出ていた釘がふっと腕へ刺さった、天のたすけである。
お糸は手首の縄を、そのとがった釘のさきへごしごしこすりつけた。
――神さま、神さま!
心はただ神を念ずるばかりである。
縄はかたかった、釘はなんどもすべって手首の皮をつきさした。
……進軍の物音はどんどん遠くなる、お糸は胸いっぱいにさけんだ。
――神さま、お糸の命を差上げます、どうか天子様の軍隊をおまもり下さい。
お糸の命は差上げます、神さま!
死力をつくしたかいがみえた。
縄はふつりと切れた。
お糸は夢中で両手をふりほどくと、手早く足の縄もとき放しながら小屋の外へとび出した。
――しめた。

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