初級翻訳・梟谷物語 第5話

山本 周五郎

広場に人夫とみえる男が四、五人、馬の背へ残りの荷物をしばりつけているところだ。
お糸は走った。
そして篝火の中から、燃えている松を一本ぬきとると、まだ荷をつけてない一頭の馬へ、いきなり飛び乗った。
――積荷で夢中だった人夫たちがそれと気づいて、
「あ、誰だ」
「――曲者!」とわめきたてたときは、もう蹄の音も高く砦の外へと、はしりだしていた。走った! 走った!
山道で馬を走らせることには慣れていた。ただ、松の明かりの火が消えないように背中で守りながら、疾風のように駆け抜けていった。
――ああ、ありがたい。神さま!
間に合った。
屏風岩にかかる五百メートルほど手前で、ついに進軍中の官軍に追いついたのだ。
――お糸は燃えている松を高く掲げ、
「危ない! 危ない! 止まってください!」と叫んだ。
叫びながらも、馬のスピードは緩めなかった。
――兵士たちはびっくりした。
「よけろ、馬だ!」
「馬だ! 危ない!」
叫びながら左右に散らばる。そのあいだをお糸は飛ぶ矢のように突き進んでいった。
――自分はスパイとして捕らえられていたのだ。今ここで屏風岩のことを話しても、誰も信じてはくれないだろう。方法はたったひとつしかない! とお糸は覚悟していたのだ。
五百人の隊列を抜けぬけたとき、
「――天子様、万歳!」
とお糸が叫んだ。
――そして、まっすぐに屏風岩の下まで馬を乗りつけると、燃えさかる松の木を岩の根もとへ力まかせに投げつけた。
恐ろしい炎が闇を突き破った。
轟音! 轟音! 轟音!
道をはさんで左右に迫る、三十メートルあまりの岩石が火柱とともにものすごい勢いで崩れだした。まるで地球の軸が裂けたかのように思われた。

五百人の隊士たちはこの様子を目の前にして、まるで気を失ったかのようにぼんやりと立ちすくんでいた。
――その群れの中で、
「――石岡」
半九郎は石岡吉次郎を振り返って言った。
「見ただろう、あの娘だぞ」
「……はい」
「天子様万歳と言ったな――」
半九郎の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。彼はむせぶように夜空を見上げて言った。
「お糸、おまえは立派な日本の娘だぞ。立派な天子様の……」
涙が声をかき消した。
半九郎の感動をそのまま物語るかのように、ものすごい崖崩れが続いていた。――それは四月十七日の朝二時の出来事であった。

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